TITLE : あるのかないのか? 日本人の創造性 講談社電子文庫 あるのかないのか? 日本人の創造性 草創期科学者たちの業績から探る 飯沼和正 著  目 次 序 章 二つの設問 第一章 北里柴三郎 第二章 高峰譲吉 第三章 長岡半太郎 第四章 池田菊苗 第五章 夏目漱石 第六章 鈴木梅太郎 第七章 創造活動に対する抑圧とは何であったか? 第八章 創造のための組織の構築を   あとがき   参考文献   謝 辞 あるのかないのか? 日本人の創造性 ——草創期科学者たちの業績から探る 序章 二つの設問 1 日本人は、本当に科学・技術の創造性に乏しいのか? 2 創造性を抑圧するオモシは何であったか? 第一の設問、日本人は創造性に乏しいか?  歴史とは、現代と過去との対話だという。これから五人ばかりの、明治の科学者を紹介してみようとしているのだが、現代のわれわれは、過去の明治に向かって、では何を問いかけようというのか。いってみれば現代の側の問題意識とは何なのか。それをまず最初に整理しておきたい。  私の設問の第一は、「日本人は、本当に、科学・技術の創造性に劣っているのか」ということである。巷間《こうかん》、しばしば、人はいう。“日本人は模倣はうまいが、創造的能力は乏しい”と。その例証として、明治以降、日本の産業や科学・技術が欧米先進国の模倣によって成長してきた状況が、語られる。このこともかなり確かな事実ではある。  しかし、だからといって、日本人には、創造性が、格別に乏しかったのか——。  われわれは、もう少し、歴史のなかに立ち入って、事実を踏まえた上で議論をせねばならない。  とりあえず、この本で五人の明治の代表的科学者を紹介しようとするのは、何よりも、彼らの業績という歴史的事実を、人々の共通認識の土台にしたいからである。これらの業績を承知の上で、なおかつ、日本人には、科学・技術の創造性が乏しいと、断言できるのか。  それが私の投げかけたい設問の第一である。  では、何故に、このような設問が、今、この時点でなされねばならないのか——。  それは、今後、二十一世紀にかけて、日本の社会が、創造の時代にさしかかろうとしているからである。創造性というものが、過去とは比べものにならぬほど、強く求められているからだ。  明治以降、百余年にわたって、日本の社会は、常に見習うべき先達《せんだつ》をもっていた。それはドイツであり、イギリスであり、フランスであり、アメリカであった。見習って間違いのない先達が、われわれの前方を常に走っていたのである。われわれは、そのような確固とした先導走者の背中を見ながら、ひたすら追いつく努力をしてきたのであった。それによって、他の分野はさておき、日本の科学や技術や、産業は、着実に発展できたのである。  ところが、百余年のひたむきの模倣と追走のあげく、ふと気がついてみたら、もはや、前方には、先導走者が見られなくなった。そんな歴史的状況に、われわれの社会はいまや到達してしまっている。  その端的な指標が、わが国の技術貿易の収支だ。技術導入と技術輸出との比率は、一九八四年の実績がほぼ一〇〇パーセントに達してしまっている。この比率は、日本の産業社会全体としての、「模倣対創造」の指標とみなしてさしつかえない。  この同じ指標が、今から二〇年昔の一九六五年(昭和四〇)ごろでは、まだようやく、一〇パーセント前後でしかなかった。しかし、それ以前は、一〇パーセントどころではない。明治以降、一貫して、もっと、ずっと、悪かったのである。それがようやく一九六五年ごろから、起ち上がってきて、近々二〇年間にほぼ一〇〇パーセントに到達したというのが、事の推移である(図1)。  このことは、日本の社会、なかんずく産業社会が、模倣による発展の時代に、終りを告げようとしていることを意味している。あべこべないい方をすると、これからの日本の社会は、創造に頼って発展するしか、発展しにくい時代にさしかかっている、といえるのではないか——。  もしも、そうだとしたら、社会の発展のための、新しい原動力である創造性を、われわれ日本人が備えているのか、いないのか。それは、当然に、切実な関心事となる。 第二の設問、創造性の発現を妨げるものは何か?  このような、切実な関心を、今から約一〇〇年も昔に抱いた人物がいた。わが国の物理学の草わけともいうべき長岡半太郎(一八六五〜一九五〇)である。若き日の長岡は、自分の人生の岐路に立って、東洋人に、創造力ありやなしやを悩んだのであった。彼は東大の理学部に入ったばかりのころ、一年間休学している。十八歳から十九歳にかけての時期であった。  あとになって、長岡はこう述懐している。  自分が物理学者になろうとするのは、学問の先端を切り開くためである。外国から学問を輸入して、これを日本人の間に宣伝するために、物理学者になろうというのではない。しかし、われわれ東洋人には、果して、研究者としてそれだけの資質があるのであろうか。  その不安を解くために、一年休学して彼は、中国の古典を読み直したのである。そして、中国の歴史のなかに、第一級の科学・技術の成果があることを確認。そんな確信を得て、長岡は改めて、物理学者への途《みち》を選び、進んでいったのであった。  われわれは、今、社会全体として、長岡のかつて抱いた不安を、共有しかかっているのかもしれない。  ただ、あらかじめ、誤解されないように、ひとつ断っておきたいことがある。今ここで、私が、明治の科学者について検証し、その結果、日本人に創造性ありという結論がよしんば得られたとしても、それでもって、“天孫民族の優越性”を誇ろうと意図しているのではないということである。  私の基本的な考え方はこうである。  日本人であろうと、中国人であろうと、アメリカ人であろうと、創造力というものは、人間には、性来、備わっているのではないか。ただ、ある固有の社会には、その社会に特定したオモシ——創造性を抑圧するオモシ——があるのではないか。ある固有の時代には、その時代特有のイマシメ——創造性の発現を束縛するイマシメ——があるのではないか。  そのようなオモシやイマシメが何であったか——その点こそを、明治の科学者たちにより多くたずねてみたいのである。  現代の立場から、明治の過去に問いかけてみたい、第二の設問は、このことである。 第一章 北里柴三郎 破傷風菌の純培養に成功 免疫血清療法の創始 東大医学部との対立 そして、伝研騒動へ なぜ、北里柴三郎か  一八六八年、明治維新を迎える年、北里柴三郎は、すでに十六歳の少年であった。同じ年、高峰譲吉は十四歳。長岡半太郎は三歳、池田菊苗《きくなえ》は四歳である。鈴木梅太郎はまだ生まれていない。  わが国における近代科学の夜明けを拓《ひら》いた代表的科学者として、仮に、この五人を選ぶとしたら、北里柴三郎は、その年齢からいっても、トップ・ランナーだ。  世界的な業績が出はじめる年代を比べてみても、北里のそれはもっとも早い。第一級の細菌学者として彼が世界の承認を受けるのは、まず、破傷風菌の純培養の成功によってであった。ついで破傷風菌の抗毒素を見出し、これがべーリングのジフテリア研究に結びつく。そして、血清療法の発見へとつらなっていくのである。これらは、一八八九年から九〇年にかけて、つまり、明治二二年から三年の時期である。日清戦争以前の、それも五年も以前の仕事であった。  これに、比べると、高峰譲吉の、世界的業績が出てくるのは、やや、あとになる。それは一八九三年(明治二六)から一九〇〇年(明治三三)の時期である。まず、タカ・ジアスターゼ(強力消化酵素)を発見し、さらにアドレナリン(副腎ホルモン)の結晶を単離する。  長岡半太郎が第一回万国物理学会に招かれて、日本人としてはじめて講演したのは一九〇〇年、演題は磁気歪《ひずみ》の研究であった。わが国において、もっともよく知られている土星型原子模型を、彼が提唱したのは、一九〇三年(明治三六)のことだ。  他方、うま味の根源はグルタミン酸ソーダ(“味の素”)だと、池田菊苗がつきとめたのは一九〇八年(明治四一)。鈴木梅太郎のビタミンの発見は、さらに下がって、二年あとの一九一〇年である。  このように業績の順に並べてみても、日本人から出た、近代科学の成果としては、北里の仕事が、もっとも早い。 ベルリンのコッホのもとで  破傷風菌の純培養から、血清療法の発見に至る、北里の仕事は、ベルリン大学のコッホの研究室で行なわれたものだ。一八八九年から九〇年という時代、わが国では、ようやく帝国憲法が公布され、第一回の帝国議会が開かれている。他方、北里の留学を受け入れるドイツは、ウィルヘルム二世が即位し、鉄血宰相ビスマルクが辞職した時期に重なっている。普仏戦争に勝ったプロシヤが、ドイツ帝国を統一し、国運、まさに隆盛——という時代であった。  一八八三年(明治一六)、東大医学部を三十二歳で卒業した北里は、内務省衛生局に入って、しばらく、国内の衛生行政を担当する。そのかたわら、ドイツ留学から帰国したばかりの緒方正規(東大教授)について、細菌学実験の手ほどきを受けたりもする。  北里自身のドイツ留学は一八八五年の秋だった。時は鹿鳴《ろくめい》館の全盛期であり、自由民権運動が、加波山《かばさん》事件、秩父《ちちぶ》事件となって荒れ回っていた。新婚二年目の妻(大蔵省官僚、松尾臣善の次女)を残して、ヨーロッパへの船出をするとき、北里はすでに三十四歳。彼にとっては、けっして早い留学とはいえない。ちなみに陸軍軍医中尉、森林太郎(のちの森鴎外)は、この時、二十四歳、二人は、同じころ同じドイツに留学している。  この当時、通常の外国留学は二〜三年が期限であった。ところが、北里の場合は二度も期限の延長を申し出て、結局、合計六年半ベルリンに滞在する。  緒方正規の導きでコッホの門に入った北里は、当初、チフス菌やコレラ菌などの研究を手がける。破傷風菌に彼がとり組むのは、そのあとであった。  破傷風の病原菌そのものは、一八八四年、すでにドイツのニコライエルによって発見ずみである。しかしながら、破傷風菌を単独に純粋培養して、その菌でもって、実験動物に発症せしめるのには、いまだだれも成功していなかった。  あるひとつの病気の原因として、ある特定の、ひとつの細菌が決定づけられるためには、次の三つの条件が満たされねばならない。  すなわち、(1)特定の病気について、常にその特定の細菌が見つかること、(2)体の外で、その特定の細菌が培養しうること、(3)健康体に、その特定の細菌を入れると、その特定の病気が起こること——。  この三つの条件を、コッホが提出したのは一八八一年のことだった。実際、コッホは、脾脱疽《ひだつそ》菌について、この原則を見出し、それによって細菌学の始祖となるのである。  この原則にもとづいて、コッホは連鎖状球菌、結核菌、コレラ菌……とつぎつぎに発見する。北里が、コッホの研究室に入る前後とは、このコッホの新しい方法論によって、続々と新しい細菌が発見され始めた時代であった(表1参照)。  北里は、こうして細菌学興隆の気運のまっただなかで、破傷風菌にとり組むことになる。  破傷風菌というのは土壌中に多くいる細菌である。傷口から侵入して、しばしば発病させる。昔は野戦での負傷兵士が多くかかり、また出産時の傷口にとりついて、母親や新生児を痛めつける伝染病でもあった。  ニコライエルによる破傷風菌の発見のあと、フリュッゲ(ゲッチンゲン大学)らによって、この菌の純培養が試みられてはいた。しかし、培養した結果には、いつも他の雑菌の繁殖がみられた。それ故に破傷風菌というのは、単独では培養できず、他の細菌との「共生」によってはじめて培養することができる、そのような新しい菌種であると、フリュッゲたちは報告していた。 破傷風菌は嫌気性——純培養へのキッカケつかむ  北里はこれに疑問を抱いた。彼はフリュッゲの実験の追試からまず研究を始め、フリュッゲの指摘どおり、破傷風菌が共生的にしか培養できないことを追認する。ただしかし、その追試の過程で、北里は、破傷風菌が嫌気性細菌らしいことに新しく気がつくのである。  それというのも、破傷風菌の実験に先立って、彼は、気腫疽《きしゆそ》菌という嫌気性細菌についての純粋培養にすでに成功していたのだ。気腫疽というのはウシの病気である。一種のガス壊疽《えそ》の病気である。北里は、水素ガスを使って、この気腫疽菌の培養に、すでに成功していた。その手法を、彼は嫌気性の疑いの濃い破傷風菌にも適用してみたのである。その結果、破傷風菌の純培養にも成功する。こうして培養した菌で、動物実験をすると、破傷風はまちがいなく発症した。コッホの原則は、ここでも是と確認されたわけである。  この成功に励まされて、北里は破傷風菌の産生する「何が」、破傷風症という病気を発生せしめるのか——それを見きわめようとした。  彼はそこで、独得の濾過装置を考案する。これによって、破傷風菌そのものと菌の芽胞とをまずとり除いた。そして濾過器を通過した液体を、極微量、実験動物に注射してみた。これによっても破傷風は、まちがいなく発症した。破傷風菌の産生する一種の毒素が、破傷風という病気の原因であることがこれによって確認されたわけである。  後年、人が語っているのであるが、北里の学問は、終始、実学派であったという。破傷風菌に関する知的好奇心を満たすだけならば、ここまでの研究成果でじゅうぶんであったかもしれない。しかし、北里は、これだけでは満足しなかった。  彼の思考は、さらに先へと進んでいく。破傷風という病気の、治療への手がかりは、ないものか——。  この時、北里は、コカイン中毒のことを思いついたという。コカインを少量ずつ、反復して使用していくと、患者のからだのほうが毒になれて、相当量を施用しても、中毒症状を起こさなくなる。細菌の毒素にも、これと同様な関係があるのではないか——と。これが、北里の仮説であった。  彼は、破傷風菌の毒素(濾過液)によって、まず特定の実験動物(マウス)の最少致死量を決めていく。そして、この毒素を数万倍から千倍の範囲で希釈《きしやく》してみた。濃度の低いものから、濃度の高いものへと、順に少量ずつ、反復して、実験動物に注射を繰り返した。この手順を重ねていくと、実験動物は、破傷風菌の毒素に対して、ある種の免疫性をもつようになる。ついには致死量を超す毒素を一時期に注射しても発症をみなくなる。 抗毒素は血清のなかに  北里の思考は、キリをもむように、いっそう深くつき進んでいる。おそらく、コッホとの対話や、研究室の仲間たちとの討議によって、彼の思考はより深められたのであろう。  では……このような免疫性を与えるものは、何なのか。実験動物中のどこに、それが存在するのか。  結論を先にいえば、それは、実験動物の血液中の「血清」にあった。破傷風菌の毒素によって強く免疫を与えられた実験動物の血液から、彼は血清のみを分離する。そして、この血清と、破傷風菌の毒素とを、同時に、実験動物に注射してみた。が、実験動物には、破傷風の発症はみられなかった。次いで、この血清と、この毒素とを試験管のなかで混合した。その混合液を、実験動物に注射した。ここでも破傷風の発症はみなかった。  北里は、こうした一連の研究成果を、『衛生学雑誌(Zeitschrift f殲 Hygiene)』の第七巻と第一〇巻とに発表する。これが一八八九年から九一年にかけてであった。  免疫血清療法の基礎は、かくして北里の破傷風菌の研究によって確立したのであった。  後年(一九〇八)来日したコッホは、北里のことを、こう述懐している。 「自分のところに、初めて彼がやって来た時、ドイツ語をよく話すのに驚いたくらいに過ぎなかった。ある日、北里は私の部屋にやってきて、破傷風菌の純培養に成功したといって一本の試験管を示した。しかし、これは老練のフリュッゲなどが数年間苦しんだにもかかわらず、まったく成功しなかった難問題であった。だから、私は容易に信用しなかった。……その後まもなく、北里は再びやってきた。今度は、破傷風菌のゲラチン培養をもってきた。自分は半信半疑のうちに、北里の培養でもって、動物実験をやらせてみたところ、疑いもなく破傷風固有の症状を発した。これによって自分の疑念はまったく散じ、すぐに北里の部屋に行って、大成功を祝した(中略)。  ついで、彼が……純培養を得た方法と順序とを親しく聞くに及び、私は彼の非凡なる研究的頭脳にますます驚いた。自分はひき続いて破傷風毒素の研究を奨励した。そして彼はついに免疫血清を造りあげた。そのころは未だ種々の伝染病に対する免疫療法はひとつもなかった。実に北里の研究によって、医学界の血清療法は始まったのである。当時、ベーリングはジフテリアの免疫について研究していたが、常に破傷風菌の研究に導かれて、進歩したのである。今日、有効なる血清療法があるのは、北里の破傷風研究に基づいている。破傷風の研究が近世の治療医学にひとつの新紀元をなしたと認められるのは、このためだ」——と〔注1〕。 北里からベーリングへ  ここでコッホがのべている、ベーリングのジフテリア研究と北里の破傷風研究との関係とは、おおむね次のようなことである。  その当時、ジフテリアは死亡率四〇パーセントを越える、深刻な伝染病であった。コッホの研究室では、ベーリング(Emil Adolf von Behring)がその研究を進めていた。一方、北里が、みずから選んだ破傷風は、ジフテリアに比べると患者の数も少なく、深刻さの、より少ない伝染病だった。  先に示したコッホの述懐でも知られるように、コッホの許《もと》に入門した北里は、当初、コッホの関心を格別にひくような研究者ではなかったらしい。明治二〇年代という時代とその背景とを考えあわせれば、ヨーロッパ人にとって、日本人そのものが当時、おそらく学問の上で関心のもたれる対象ではなかったのであろう。だから、コッホの研究室において、当初、北里が重視されていなくてもさほどふしぎではあるまい。ベーリングがジフテリアという、より重質なテーマを担当し、北里のそれがより軽いテーマであったとしても、さもありなんとしかいいようがない。しかも、その破傷風という研究対象にしたところで、コッホから与えられたものではなかったらしい。北里自身が勝手に選んだものであったようなのだ。来日した際のコッホの述懐(前述)がそのことを明らかにしている。  しかし、北里の破傷風菌での研究成果を知るや、コッホはただちにベーリングとの共同研究を指示している。その結果、ジフテリア菌においても破傷風菌と同じような現象のあることがわかったのである。 「ベーリングのジフテリア免疫の研究は常に破傷風菌の研究に導かれて進歩した」と、コッホがのべているのは、このことを指している。  ベーリングと北里は、一八九〇年一二月、連名で論文を発表する。題は「ジフテリア及び破傷風菌の血清療法について」。発表誌は『ドイツ医事週報(Deutsche Medizinische Wochenschrift 16, 1890, 12. 4)』であった。この論文は、トップネームこそ、ベーリングになっているが、その内容の半ば以上は、破傷風に関する実験の報告で占められている。  他方、ベーリングは、この一週間後に発刊された、同じ『医事週報』に、今度は、単独名で、「ジフテリア免疫成立に関する動物実験」と題して、詳細な発表を行なっている。のちに一九〇一年、ベーリングは、この論文によって、第一回、ノーベル生理学・医学賞を受けるのである〔注2〕。  このような事情があったせいか、血清療法の開祖は、北里ではなく、ベーリングだという中傷が、日本国内の医学界では、早くから聞かれていた。これについて北里自身、「医学博士中濱東一郎君に答う」という公開の手紙の形で、おおむね、次のような意味のことをのべている(一八九六年=明治二九)。  ジフテリアは患者数が多いために血清療法の効果が赫灼《かくしやく》としている。これに反して破傷風は患者が少数なるがために、その効験が多少、埋没した感がある。これについては、私はみずからを慰めるより外に致し方がない。しかしながら、血清療法を第一に完成した研究が、破傷風であることは「滅セント欲シテ滅スベカラザル所ナリ」。  この事実に関して、ベーリングが今日になって「イカナル筆舌ニ上ストモ 余ハコレオ攻撃シテ 旧交オ破ラントハ思ハズ 彼モシ 中夜《ちゆうや》、人定マルノ後、手オ胸ニシテオモムロニ 往時オ追懐セバ 必ズヤ 心波 時ニ平ナラザルモノアラン」〔注3〕。  ベーリングと北里との連名の論文の内容からみても、コッホの述懐からみても、血清療法に関する初陣《ういじん》争いは、明らかに北里に軍配があがりそうである。  だが、ここでは、そのような初陣争いがわれわれの興味の対象ではない。  日本人に科学・技術の創造性がありやなしやを考えるとき、明治二二年から三年という、わが国の近代化のきわめて早い時期に、北里のようなごつい成果が突出してくるという事実を、われわれは、どう受けとめればよいのか、そこのところが、われわれの中心課題なのである。  ベーリング・北里の初陣争いを、仮に百歩譲って、ベーリングの勝ちだとしよう。そうだとしても、第一回ノーベル生理学・医学賞を先導するような、重大な研究成果が、明治二〇年代の初頭に、早くも日本人の頭脳から出てきているのである。 世界各国から招へい  北里は、このあと、約一年、コッホの許《もと》に留まって、コッホのツベルクリン研究の助手として、もっぱら動物実験を担当する。  細菌学者としての、彼の名声は、破傷風菌の純培養の業績以来、すでに世界の学界に広く知られていた。だから、一八九二年(明治二五)五月末の帰国に先立って、世界各地の大学などから、彼を招へいしたいという申し出があいついでいる。  イギリスのケンブリッジ大学は、細菌学研究所を新設し、その所長として、北里を迎えようとした。アメリカのペンシルベニア大学は、年間四〇万円の研究費と年俸四万円でもって彼を招いている。このほか、ブルックリンや、ボルティモアの病院も、彼を迎えたいと申し出た。  彼の業績に対するドイツ帝国からの謝意として、プロシヤ政府は「プロフェッソール(Professor)」の称号を贈る。一八九二年の五月、彼の帰国に先立つこと一ヵ月前であった。当時ベルリンにあった姉小路公義《あねこうじきみよし》公使は、外務省への異例の公電として、これを伝えている。 「北里は……学者として、普《ふ》国大博士の学位を得る。……洋名プロフェソルは大博士の意で、大学教授と訳するは非なり」と。(なおドイツ帝国は連邦制であったために、内政、学術の分野は、各州政府の管轄に任されていた。したがって、この「プロフェソル(大博士)」の称号は、プロシヤ政府文部省から贈られている)。  北里の学問上の、大きな業績としては、もうひとつ、ペスト菌の発見をあげておかねばならない。これは、いったん帰国したあと、一八九四年(明治二七)、ホンコンでのペスト大流行に際し、現地に出張している間に、発見したものである。この北里の発見したペスト菌を彼自身は、それがグラム陽性菌か陰性菌か、確定できなかった。それ故に、久しくこの評価が、学界でも定まらなかった。しかし、今日では、ペスト菌そのものの発見では、北里が最初で、次いでエルザン(フランス)の順という評価に落ちついてきている。  北里の学問上の業績というのは、ざっと以上のようなものであった。繰り返すようであるが、これが、明治二〇年の時代に、突如として出てきた日本人の科学的業績なのである。明治二〇年代という時代を知るために、もう少し当時のわが国の社会を解説しておこう。  鉄道は、ようやく東海道線が開通したころだ。東北本線はまだ開通していない。官営八幡製鉄所ができるのが明治三〇年。近代国家の創設に不可欠な、鉄鋼生産そのものすら、明治二〇年代のわが国では、まだ始まってもいなかった。それは樋口一葉の『たけくらべ』の世界であり、尾崎紅葉の『金色夜叉』の社会であった。川上音二郎の壮士劇の時代であった。  わが国の近代化の、ごく初期の時代に、早くも、北里のような、ごつい近代科学の成果が、日本人のなかから出てきている。この歴史的事実を、われわれは、どう受けとめればよいのか。  いったい、北里柴三郎という人物は、どのような生い立ちであったのであろうか。 阿蘇の山村に生まれて  北里は、嘉永五年一二月二〇日に生まれている。これは一八五二年。ペリーが浦賀にはじめて来航する、その前年に当たる。生地は、現在の熊本県阿蘇郡小国町北里。阿蘇山から真北に約二十余キロメートルをへだてた山村である。生家は土着の郷士、そのあたりの総庄屋でもあった。柴三郎という名ではあるが四男五女の長子だ。  早く十歳のころから親元を離れ、父方の伯母の許《もと》、母方の実家などに寄宿する。長男でありながら、何故にこんなに早く親元を離れたのか、今、私にはさだかではない。幼時から頑健で、負けん気が強かったとは伝えられている。あるいはそれを厳しく、しつけるために、早くから親元を離したのかもしれない。  十五歳になると熊本に出て、漢方医について儒学を学ぶ。幼時、少年期に彼が受けてきたのは、ごく月並みな儒学でしかない。もっとも青年期に入った彼が、もっぱら興味を示していたのは剣道や馬術だったそうである。明治維新を十六歳で迎えたころには、彼は軍人か政治家を志望していたようだ。  新しい、いわゆる洋式の教育に、はじめて彼が接するのは二十歳の時。一八七一年(明治四)である。新設の熊本医学所(翌年医学校と改称)に入って、三年間、オランダ人、マンスフェルトから医学の手ほどきを受ける。この師マンスフェルトにすすめられて、やがて、彼は東京の大学への進学を志すのである。  しかし、北里には親からの学資の援助は期待はできなかった。小国郷の総庄屋とはいうものの、もともとが豊かではない。維新に入って家計はさらに苦しくなっていた。弟妹もまた八人と、家族が多かった。 「身ひとつもらったと思って、勉学に励《はげ》め」というのが、親からの、はなむけのことばだったという。  七四年に上京、翌年、東京医学校に入る。これが改称して、東京大学医学部となるのは一八七七年(明治一〇)である。未だ新しい学制の草創期であったから、当時の大学教育は、きわめて自由である。出席などは強制されず、試験に合格さえすれば進級できた。だから北里のように、働いて生活の資を稼《かせ》がねばならない医学生にとって恵まれた時代ではあった。  医学校での彼の成績は「中以下を下がらなかった程度」。彼はむしろ「同盟社の主将」として目立っている。同盟社というのは、今でなら、さしずめ学生自治会か——。北里みずから提唱して結成。自分で、その「主将」に納まっている。政治、外交、軍事を論ずる演説会を週末に開き、講義要項を印刷したり、売りさばいたり。北里にとって、これが生活の資であったのかもしれない。外人教師のやり方がけしからぬと称して、ストライキまがいの抗議行動を起こしたりもしている。眼科と外科を教えていたドイツ人教官シュワルツをして「君たちには医師となる見込みなし」と、激怒させたのも、外ならぬ北里であった。 医師よりは衛生官僚を目ざす  一八八三年(明治一六)七月、東大医学部を卒業する時には、彼はすでに三十二歳になっていた。松尾臣善の次女と結婚するのは、その三ヵ月前である。  卒業した北里は、内務省に入って衛生局に勤める。月俸は七〇円。当時、東大医学部の卒業生は、全国各地の病院長か、医学校の校長になって赴任《ふにん》するのが常であった。その月俸は二〇〇円が標準の相場であったという。  しかし、北里は、ひとつにはドイツ留学の機会の多い職場として衛生局を選んでいる。また同時に、一国の衛生行政にたずさわることのほうが、彼の初志には、合致していたようでもある。もともと彼の青年期の志望は、軍人か政治家であったのだから。ともあれ、通常の「医学士」としての、月並みな、月俸二〇〇円の途を選ばずに七〇円のほうを彼は選んだのである。もっとも、この当時の七〇円、明治一六年のころの「七〇円」を薄給とみるべきではない。同じ東京大学の卒業生であっても、明治三〇年ごろの法学士で日本銀行に勤めた場合、その初任給は二五円程度である。だから、月俸二〇〇円というのが、破格なのであって、「七〇円」でもじゅうぶんな高給といわねばならない。  ともあれ、内務省衛生局に入った北里は、二年後の一八八五年(明治一八)、かねて待望のドイツ留学に赴《おもむ》くことになる。  すでに、われわれは、ドイツ留学中の北里が、いかなる業績をあげたかを知っている。  ここでは、一気に筆をとばして、北里のドイツからの帰国前後の状況に、話を進めよう。 帰国、しかしポストはなく  単身赴任で、六年半に及ぶベルリンでの生活を終え、北里が日本に帰ってくるのは一八九二年(明治二五)の五月末。三十四歳で日本を出た彼はすでに四十一歳になっていた。  破傷風菌の純培養をはじめとし、血清療法の創始者としても、またコッホを助けて、ツベルクリン(一種の結核抗毒素)の動物実験の担当者としても、彼はすでに世界の医学界に名を成した存在であった。ドイツはもとより、フランス、イギリス、アメリカ、ロシア、イタリアなど各国の医学会は、彼を名誉会員として迎えている。  それにひきかえ、彼の故国は、むしろ冷ややかに、北里を迎えたのである。世界各国からの、ひく手あまたの好遇を断って、帰国したのにもかかわらず、北里が研究のできるポストは、日本には用意されていなかった。  もともとの、出里《でざと》である内務省衛生局に、とりあえず「内務一等技手」として復職するのである。しかし、そこには研究や実験のための設備などはない。文部省は、彼の帰国の前年に、「医学博士」の学位を贈ってはいる。しかし、その当時の、わが国での唯一の研究機関である東京帝国大学は、北里のためのポストを準備しようとしてはいない(当時の学位は、大学が認めるのではなく、文部省が授与するもの、いわば、学者への勲章のようなものであった。また東京大学は、一八八六年=明治一九=に工部大学校などを吸収合併して「帝国大学」となっている。他方、京都帝国大学の創設はもっとあとの一八九七年であった)。  北里が、東大に迎えられなかったのには、確たる理由があった。  東京帝国大学は、「師弟の道を解せざる者」として、彼を拒絶したのである。これは、当時の綜理(いまの総長)加藤弘之のことばである。ではなぜ、北里は「師弟の道」を解しなかったのか——。その背景は、おおむね、次のようなものである。  ここでいう、北里の“師”とは、緒方正規(一八五三〜一九一九)を指している。もともと、北里と緒方とは、熊本医学校での仲間であった。緒方は、北里より一歳、年若くもあったのだが、三年早く上京。東京医学校(のちの東大医学部)に入る。したがって、そこを卒業するのも三年早い。卒業後はただちに、教授候補者として大学に残り、まもなくドイツに留学。四年間、生理学と衛生学を学ぶ。この緒方もベルリンでコッホの高弟の一人から、細菌学実験の技法を短期間、学んでいる。こうして、八四年暮に帰国した緒方は、東大での教授のかたわら、内務省衛生局の東京試験所でも、細菌学の実験手法を指導する。その教えを受けた、五人の弟子のうちの一人が北里だった。その期間は短かったはずである。せいぜい半年前後であったろう。何故ならば、一八八五年(明治一八)の秋には、北里がドイツに赴《おもむ》いているからだ。  この年の春、緒方は、脚気の病原菌(「バチルレン」)を発見したと発表する。そのとき、一〇〇〇人もの聴衆を集める盛大な発表講演会が開かれている。  これと前後して、オランダの医学者ペーケルハーリングもまた、脚気の病原菌として、一種の球菌(球状の菌)を発見したと報告する。ペーケルハーリングの報告は、インドネシア(当時はオランダ領)の首都バタビア(現在のジャカルタ)から発せられたものだった。  ずっとあとになって明らかにされるのだが、脚気病とは、ビタミンの欠乏症である。細菌によって起こる病気ではない。しかし、それは、一九一〇年(明治四三)、鈴木梅太郎が、世界に先がけて、ビタミンを発見し、さらにそれからしばらくのちに判明したことだった。  ビタミンの発見以前の時代には、脚気の病因は、ナゾに包まれていた。ただ、米を常食としないヨーロッパでは、それほど知られていない疾患であった。しかし、日本をはじめアジア各国では、この当時、深刻な社会病のひとつとされていた。  その“病原菌”が、日本とインドネシアとで、あいついで発見されたというのである。ヨーロッパの学界でも、当然、話題となる。 “脚気菌”の否認——癲《てん》と呼ばれ、狂と称されても  日本からベルリンに到着して間もない北里は、ドイツ人学者から、脚気菌の真偽について問いを受ける。北里は追試をやってみた。その結果、ペーケルハーリングのものも、“師”——緒方のものも、いずれも雑菌の一種であって、脚気の病原菌とは認めがたい、と結論したのである。 『ドイツ細菌学中央雑誌』に一八八八年(明治二一)、北里はこれを発表している。彼の欧文の論文としては、四番目と五番目に当たる。翌八九年、日本の『中外医事新報』第二一二号にも発表した。  この緒方正規説への批判をもって、時の東大綜理は「師弟の道を解せざる」所業だというのである。  一八八九年の夏、北里は、友人、森鴎外への私信(「与 森林太郎 書」)という形式で、当時の彼の真意を明らかにしている。  この時には、すでに北里は、忘恩背徳の輩《やから》と、日本では批難の的になっていたようだ。その批難を、鴎外は、若干、北里の肩をもつように弁護をしたらしい。彼の弁護論はしかし、北里を「知識を重視する余り、情を忘れたもの……」という筋であった。  これに対して、北里は猛然と反論したのである。すなわち、自分は「情を忘れたものに非《あら》ず。私情を制したるものなり」と。  北里のいうところは、こうであった。  学者の任務というのは、真理を見究《みきわ》める事である。この真理を見究めるためには私情は抑えねばならない。ヨーロッパの学者は、脚気病という疾患をよく知らない。そこへ東洋の方から次々と病原菌発見説が出てきている。これを、そのままにしていると、ヨーロッパの学界では、病気そのものを知らぬままに、これが真実だと通ってしまう。他方、日本の医学界の方は「学理」に暗い。それが故に、これまたまちがったことが、真理だとなって、通ってしまう。こういった問題の真偽を確認できるのは、世界中でも、わずか二、三人の人間でしかない。その二、三人の学者が「我邦に固着する支那風の友情道徳」〔注4〕でもって反論、批判をしなかったとしたら、真理はどうなるのであるか。日本の医学をして、真にヨーロッパの医学に対峙《たいじ》できる水準に達せしめようとしたら、自分は私情を捨てて、公情をとらざるを得ない。そのことの故に、世間の人が自分のことを、「癲《てん》となし狂と称し、恩少《すくな》し徳に背《そむ》けりというも」……自分はそれを甘受しよう。  この手紙は一八八九年(明治二二)の『東京医事新報』第五九九号に公表されている。ベルリンに来て、四年目のことであった。  これが、北里と東大医学部とのトラブルの第一回戦だった。  第二回戦が間もなくやってくる。これもベルリン滞在中のできごとである。  すでにのべたように、北里のドイツ留学は、二回の期限延長で、合計六年半にも及んでいる。最初の延長、つまり三年の期限を延長して五年にするところまでは、内務省の内規で、さほど問題もなく認められている。しかし、満五年を過ぎる二度目の延長はきわめてむずかしかった。  この期限延長の交渉が行なわれたのは、たぶん一八九〇年(明治二三)の前半のあたりであったろう。そのころの北里は、すでにコッホから十分に認められ、重用されている。ツベルクリンの動物実験を担当している。培養した結核菌を煮つめて濃縮したものがツベルクリンであるが、これで、結核という疾病が治療できるかもしれない——そこのところの研究が、コッホの許《もと》で、詰められようとしていた。コッホにしてみれば、有能な助手である北里を、少なくともいましばらく手放したくなかったのであろう。コッホみずからベルリン公使・西園寺公望を介して、北里の留学期限の延長を、日本政府に要請している。  しかし、日本側の回答はノーであった。内務省は好意的ではあったが、予算のワクがなくてダメ。他方、予算ワクにゆとりのある文部省のほうは、例の「師弟の道」事件のせいか、首をたてにふらなかった。かねてから北里に期待を寄せていた、かつての上司(元・衛生局長)、長与専斎が、いろいろと奔走して、宮内省に請願。明治天皇からの恩賜金として、やっと一〇〇〇円をとりつけたのである。これが北里の、最後の一年余のベルリン滞在費となっている。 コッホ、東大医学部の三人を入門拒絶  一方、このころ、すなわち、一八九〇年八月、ベルリンでは、第十回万国医学会が開かれる。そこでコッホはツベルクリンを発表。これが世界的な反響を呼ぶ。コッホ自身はきわめて控え目な報告をしたにもかかわらず、ツベルクリンは、結核の特効薬かと、世界中が大騒ぎになったのである。  わが国の文部省、とりわけ東大医学部があわてた。当時、在欧中の山極勝三郎助教授ら三人を、急遽、ベルリンへ派遣。コッホにツベルクリンの“伝授”を求めている。  その、当のツベルクリン研究のために、コッホみずからが北里の留学延期を、日本政府に要請したのは、わずか半年ばかり前のことではないか。それを、むべもなく断わっておきながら、ツベルクリン発表の反響が大きかったからといって、あわてて三人もの研究者を送りこもうとしたのである。  コッホが、これを拒絶したのは当然であろう。訪ねてきた三人に対して、コッホはこういった、という。 「君たちは何の目的で、ここにやってきたのか? 自分の研究室にキタザトがいることを日本では知っておらぬのか」——と。  これが北里と東大医学部との反目を、さらに深刻化させたのであった。  ケンブリッジ大学やペンシルバニア大学などなどからの好遇の申し出を、北里は辞退して、日本に帰ってくる。明治天皇からの恩賜金に感激して、故国に報いようと勇躍、北里は帰国してきたのであった。しかし、故国の医学界は、彼を暖かくは迎えなかった。  その背後には、以上のような経緯《いきさつ》があったのである。 伝染病研究所の創設——福澤諭吉の支援  帰国早々の北里は、伝染病研究所創設の必要性を、直接、間接に、各界に説いて回った。ポストのない学者の、我田引水ではないか、とこれをみるならば、それは明らかにまちがいだ。統計的事実が、明白に示している。赤痢、チフス、コレラなどの伝染病によって、当時、明治二〇年代の日本の社会は、どれだけ痛めつけられていたことか——。一八九〇年(明治二三)にその一例をみるならば、この年、一年だけでも、コレラによる死者が全国で約三万五〇〇〇人。赤痢と腸チフスの死者は、それぞれにつき約八五〇〇人にのぼっているのである。  伝染病研究所の必要性を訴えた北里に、もっとも敏感に応えたのは、福澤諭吉(当時五十九歳)であった。  長与専斎を通じて、北里のことを聞いた福澤は、さっそく、援助を申し出る。まずは最低限の土地と建物と住居の提供であった。  東京・芝の御成門《おなりもん》にあった福澤の借地に、二階建て、上下六室、三〇坪(約一〇〇平方メートル)の木造の建物が建つ。これとは別に、北里とその家族のための住居(約四〇坪)も用意された。福澤の支援に呼応して、実業家森村市左衛門は、研究所の設備・器材の資金を寄せた。森村市左衛門とは、ノリタケ・チャイナで知られる日本陶器の創設者だ。  他方、長与専斎らの率《ひき》いる大日本私立衛生会は、研究所の年間運営費三六〇〇円を、とりあえず準備。また、福澤の同意を得て、伝染病研究所の敷地、建物をそっくり引き継いで、同会で運営することを議決した。  こうした私的な援助の形で、わが国最初の伝染病研究所は、とりあえず一八九二年(明治二五)暮に発足したのであった。  北里は「内務技師」として当面官職のまま、これに当たる(二年後に、彼は官を辞して民間人となる)。その翌年(明治二六)、二月の帝国議会には、「伝染病研究所」なるものをめぐって、二件の対立する議案が提出されている。  そのひとつは、北里の主宰する「伝染病研究所」を、国費で補助しようという議案。長与専斎に親しい国会議員らの「議員提案」であった。もうひとつは、文部省の「国立伝染病研究所創設案」である。審議の結果、政府案が否決され、「議員提案」が可決される。それは異例の可決であった。これによって、北里の研究所、つまり大日本私立衛生会・伝染病研究所には創立補助費として二万円。向こう三ヵ年の運営費として、毎年一万五〇〇〇円が認められることになる。  ともあれ、北里の「伝染病研究所」は、こうして発足したのである。それ以降、八十歳で死を迎えるまでの北里の後半生は大別して、三つに区切られる。  すなわち、(1)「大日本私立衛生会・伝染病研究所」の所長としての時代——約七年。(2)「官立(内務省)伝染病研究所」の所長としての時代——約一五年間。(3)「財団法人・北里研究所」の時代——約一六年間。  第一期の七年間と、第二期の一五年間とは、ひとつの連続したものといってよい。同じ研究所が、北里の指導のもとで、「私立」から「官立」へと発展したものであった。  しかしながら、一九一四年(大正三)に突発した第三の区切りは、もっと劇的なものといわねばならない。北里の手から研究所そのものが、根こそぎ、奪われてしまうからである。  時の政府、大隈《おおくま》内閣は、行政改革という口実のもとに、内務省管轄下の「伝染病研究所」を、ある日、突如として、文部省へ移管。東大医学部の配下の研究所にしてしまうのである。北里にも、研究所幹部にも、何の予備折衝もなく——。  北里は、当然、この措置を不服として、所長を辞任。研究所幹部も、全員、辞任する。これが、いわゆる「伝研騒動」であった。  辞任した北里は、私財、三〇万円を投じて、新しく「北里研究所」を創設。翌年これを財団法人とする。八十歳でなくなるまでの約一六年間、北里の、最後の仕事場は、ここであった。 血清療法の効果、コレラ流行で歴然となる  もう一度、話を一八九二年(明治二五)のあたり、「私立伝染病研究所」の時代に戻さねばならない。  ここでの七年間は、帰国後の北里にとって、もっとも実りの多かった時代である。年齢は四十二歳から四十七歳。ドイツ留学期(三十四歳〜四十一歳)に比べて、創造的な研究のピークこそ過ぎてはいるものの、量的な面での研究業績は、つぎつぎに拡大してゆく七年間であった。  その業績として、まず挙げねばならないのは、血清療法の実施である。これの成功は、日本の社会全体での伝染病の激減につながっていった。  最初は、ジフテリア血清の製造をやった。これは、ベルリン時代、ベーリングとともに切り開いた、いわば北里の“御家芸”ともいうべきものだ。ついで、コレラ、腸チフスなどの血清が、つぎつぎに、つくられた。臨床実験では、大変な成功であった。  一八九五年(明治二八)、東京でのコレラ大流行の折に、研究所付属の病院では、コレラ血清が初めて試用された。入院患者一九三人中、全治が一二九人。死亡六四人。この死亡率は三三パーセントである。同じ年の全国統計によると、日本全体でのコレラ患者は約五万五〇〇〇人。このうちの実に四万人、つまり七二パーセントが死亡しているのだ。全国統計での死亡率七二パーセントに対比すれば、コレラ血清療法の効果は、だれの目にも明らかであった。  国立血清薬院が、翌一八九六年に創設されることになる。  わが国の各種伝染病は、これ以降、確実に減少の途をたどり始めるのである。  一八九四年(明治二七)五月には、ホンコンにおいて、ペストの大流行があった。北里はさっそく、現地に赴《おもむ》いて、そこで「ペスト菌」の発見をしている(もっとも、この発見には、一部分の不確実さがあって、完全無欠なものではなかったのだが……)。これは日清戦争の始まる二ヵ月以前のことだ。  ついで一八九七年(明治三〇)には、若い志賀潔=当時二十七歳=を導いて、赤痢菌の発見に成功する。  他方、この研究所では全国の医師や、各府県庁の衛生技師を選抜して、定期的な講習会を開くことにする。一八九九年(明治三二)までの五年間に、合計四五〇人の研究生が、細菌学や伝染病防止の研修を受けている。これは、北里および、その研究所の影響力を、日本全国に滲透させていくきっかけとなるものであった。  また、東京・麻布《あざぶ》の広尾《ひろお》にあった結核専門病院「養生園」では、ツベルクリンが、結核の治療薬として、有効なものか否かの臨床研究が続けられた。この「養生園」は福澤諭吉が、北里の将来を深く配慮して、わざわざ創設したものだ。経理に明るい、福澤の門下生を配して、病院経営に当たらせている。  ツベルクリンが結核特効薬かとみなされていた、この時代、北里の名声とも重なりあって、この結核専門病院は、けっこう、繁盛したのである。そこで蓄積された“余財”が、のちに、「伝研騒動」の直後、北里が、自立して研究所を創設するための基金となるのであった。 伝研、私立から国立(内務省)へ  以上のような業績によって、北里への社会的評価は、いやが上にも高くなった。「私立伝染病研究所」に対する国庫補助は、当初の期限三年を過ぎても、打ち切られはしなかった。  むしろ、研究所としての、より一層の拡充こそが求められた。その結果、一八九九年(明治三二)には、これが官立(内務省)へ移管されることになる。しかし、北里柴三郎の指導はもとより、研究所のスタッフも、事業も、そっくりそのまま認められた形で、このときは移管されたのであった。  いったんは、民間人になっていた北里は、ここで再び内務省の医務官僚になる。内務省では、すでにできていた国立血清薬院や痘苗製造所を「官立伝染病研究所」に併合、北里の管轄下に置いた。これによって同研究所の業務は、研究、診療、講習、それに加えて、治療用薬材の開発・製造という、四部門に拡充されることになる。  やがて、日露戦争の勝利のあと、一九〇六年(明治三九)には、研究所の用地、建物の大拡充が行なわれた。芝・白金台町に約六万六〇〇〇平方メートルの用地を取得。ここに建坪、約一万一〇〇〇平方メートルの研究所が完成する。  北里の帰国から一三年。わが国にも、ようやく、世界に遜色《そんしよく》のない伝染病研究所ができあがったのだ。当時、これは、コッホ研究所、パスツール研究所などと並んで、世界の三大研究所とも、五大研究所とも、呼ばれうる研究機関であった。  しかも、「官立」に移管されて以降、全国の医師や、各府県庁の衛生教官に対する講習業務は、法的にも裏づけられることになる。日本全国の衛生技官で、この研究所の講習を受けぬ者は、ほとんどいないという盛況である。このことは衛生行政の実務上においても、北里と、この伝染病研究所の影響力、支配力を、きわめて強固にするものであった。 伝研騒動——文部省、東大へ突如移管、北里辞任  いわゆる「伝研騒動」が突如として起きてくるのは一九一四年(大正三)一〇月であった。この月の一四日付官報は「勅令」という形で、研究所を、内務省から文部省へ移管することを告示している。いったんは文部省に移したあと、追って、東大医学部の所管に置くというのが、政府方針であった。  表向きの理由は「行政整理の一環として」というものである。もちろん北里への事前の相談はなかった。当時の新聞はこう書きたてている。「大隈内閣は、北里を毒殺せるものである」と。  一〇月一九日に辞職した北里は、一一月には早くも、独立して、新しい研究所を創設することを、宣言する。  辞職から、新しい研究所の創設宣言までの間に、北里は、いくつかの場でおおむね、次のような感懐をのべている。  伝染病研究所を、東大医学部の所管に移すというのは、多年、「総合研究」を主張してきた自分の主義を「根底から破壊」するものだ。伝染病研究という業務は、衛生行政の実務と一体になって活動しなければならない。それを、教育学問の府に従属させたのでは、本来の目的が果たせない。  今回の政府の措置は、理においても、情においても、自分の耐えられるところではない。いったい何故に、わが国の政府は、自分に対して、かくも「冷酷」な仕打ちをするのであるか。  このような決定が出た以上、学問の独立と権威を維持するためにも、自分は、もう一度素志に戻って、新しい研究所を設立したい。  だが、それにしても、いったい、何が理由で、このような手荒らな措置がとられねばならなかったのか。その背景となる理由は何であったのか——。  これには、三つぐらいの理由が重なり、錯綜《さくそう》しあいながら、存在していたようである。  第一は、表向きの理由として、示されていたこと、すなわち行政整理をやらねばならない、という社会的な背景である。日露戦争のあと、産業界には経済不況が長く続いていた。それ故に政府は、行政、財政の縮小整理をやらざるを得なかった。これは、伝研移管に際して単なる口実ではなかった。当時の社会的基調として、否めない、大きな背景であった。  第二は、北里の、衛生行政全般への影響力が、過大になることを、政治家、官僚が恐れたことである。  第三に考えられることは、北里と東大医学部との永年の反目と対立である。研究業績の面でも、社会的評価の点でも、北里の側に、押され続けていた東大医学部が、ここで一挙に巻き返しを図ったというわけである。 騒動の背後関係として  伝染病研究所は、これより三年以前、一九一一年(明治四四)にも、一度、行政整理の対象になりかかっている。これは、第二次西園寺内閣のときであった。内相、原敬(のちの政友会総裁)が、このときは財政整理の大ナタを振るっている。  伝染病研究所の縮小、もしくは廃止は、こうした措置の一環として、検討されたのである。しかし、北里が、直接、原敬を訪ねて、事情を説明することによって、このときは伝染病研究所および衛生局は、整理の対象から除外されている。それだけではなく、これを機に、北里は原敬からかえって厚い信頼を得ることになる。  こうして、伝染病研究所の移管縮小案は、いったんは、立ち消えとなったのである。  しかしながら、行政、財政の整理縮小を必要とするという社会的基調は、明治から大正に移っても変わらない。西園寺内閣が倒れ、そのあと、桂内閣、山本権兵衛内閣とかわって、一九一四年には第二次大隈内閣が成立する。それでもこれは依然として、政府の重要な案件であった。  他方、すでにのべてきたように、伝染病研究所の定期講習会を通じて、北里の盛名は、全国の、医師、衛生技官に行きわたっていた。その北里が、原敬(政友会)に近いということになると、国会議員などの選挙に際して、衛生行政に関連した票が、大きく政友会系に流れる恐れもあった。実際、同じ内務省の官僚である知事や、警察署長などは、選挙で、派閥が変わる度に、更迭《こうてつ》させられた時代である。全国にくまなく広がる衛生官僚の動向に、中央の政治家たちが無関心ではおられなかっただろう。北里の影響力がすでにそこまで強大になっていた、というべきかもしれない。  大隈内閣、すなわち憲政会の側としては、政敵、原敬に親しい北里の影響力を何とか断ち切っておきたかったのであろう。そのためには伝染病研究所を、内務省の所管から、他へ移さねばならない——これは、当時の状況から、考えられる第二の背景だ。  が、伝研騒動の背景として、その当時、もっとも世上を賑わしたのは、東大医学部の陰謀説だった。  北里と、東大医学部の反目対立は、北里の帰国以降も、ずっと続いている。ことある毎に対立していたというべきであろう。しかも、この対立は多く、北里の側に優勢であった。ペスト菌の発見や、赤痢菌の発見(志賀潔)といった、純粋な研究業績の面でも、北里の側が輝いていた。実際に伝染病を救うという面でも、血清療法の実施によって、伝染病研究所に対する社会的評価は高かった。  これに比べると、東大医学部のほうは、あまりパッとしないのである。たしかに全国の医学専門学校や医科大学に、教授を送り出してはいた。しかし、それは、当時、わが国唯一の帝国大学の医学部としては当然の責務、ともいうべきものであった(研究業績としては、山極勝三郎の、タールによる人工ガンの発生が、東大医学部からの成果として、光っている。これは一九一五年に行なわれたもので、山極は、東大医学部の、第二代の、病理学教授であった)。  その一方、当時の東京帝国大学医学部の教授、なかんずく臨床の教授というのは、職掌柄、皇室とか、政界や財界には、きわめて親しい位置にあった。彼らの社会的役割のひとつは“侍医《じい》”ということにあった。  北里柴三郎と反目しあっていた、東大医学部側の巨頭、青山胤通《たねみち》(一八五九〜一九一七)もそうである。彼は大隈重信の主治医であった。青山は、東大医学部の日本人としての初代内科教授だ。ドイツからきたベルツのあとを継いだのである。そして医学部長(当時は医科大学長)として、一六年間にわたって東大医学部に“君臨”している。  その青山が、大隈とのつながりを利用して、大隈内閣(第二次)の成立を機に、一挙に伝研を乗っとった——という風聞が、事件当時、世上ではもっとも信じられていたようだ。  このことの故に、青山は「群疑の的」となったともいわれている〔注5〕。  しかしながら、今日の時点で、当時の事の成行きを冷静に整理してみると、東大医学部陰謀説に、全面的には組しえない。  というのは、陰謀の震源が、東大医学部であるとするには、伝研受け入れの準備が、東大側で、ほとんどなされていないからである。  伝研の移管措置は、北里にとっても、東大医学部にとっても、寝耳に水のことであったようだ。  北里を初め、伝研の首脳部が、いっせいに辞任したことによって、もっとも対応に困ったのは、血清やワクチンの製造業務であった。これは、当時、伝研の、もっとも主要な業務のひとつであったのだが、東大医学部の側には、こうした薬材製造の経験はまったくなかった。その要員もいなかった。  そこで青山は、急遽、親友の森鴎外(陸軍軍医総監)に頼み、陸軍軍医学校などからの応援を求めて、この急場を切り抜けている。  たしかに、緒方正規の「脚気菌」を、北里が否認して以来、東大側は、北里を敵視し続けてきた。北里の「私立伝染病研究所」に対抗して、文部省立の「伝染病研究所」設立案を、国会に提出したこともあった。  さらに、今日、残っている青山側の資料〔注5〕を見ても、北里への中傷や批難は明らかである。たとえば、次のような文言が残っている。 「その当時の伝研は、婉然《えんぜん》たる伏魔殿であって、官立とはいうものの、まったく北里博士のプライベートのもののようで……その官紀の紊乱《びんらん》思いやるべきで、どこをついても刑事問題をひき起さざるはなしという状態……このもみ消しのために、北里博士も警視総監(伊沢多喜男)の前に土下座して詫びを……」  といった具合である。  ここで、その“刑事問題”の事実の有無を、うんぬんしようというのではない。青山の死後四〇年近くもあとになって出版された資料にすら、こうした文言がとり消しもされないで、残されているということに私は注目したい。それぐらいであるから、伝研騒動の、以前、以後に、これに似た中傷や批難が、東大医学部の側から発せられていたであろう——ということは想像に難《かた》くはない。  そして、青山が、大隈重信の主治医であったという立場からして、このような中傷や批難が大隈やその周辺の憲政会系の政治家に伝わっていたであろう、ということもじゅうぶんに考えられる。  だとすれば、このような中傷や批難が、伝研移管を断行する場合の大義名分のひとつとして、政治家や、官僚の側の懐中に秘められていたであろうことも、じゅうぶんにあり得たと、思う。  以上のような、もろもろを勘案すると、伝研移管というのは、行政整理を背景としながら、いわば政治家と官僚の機構いじりの餌食《えじき》とされたというべきではないか。その背景には、北里の衛生行政全般に対する、強大な影響力が恐れられた、という事実もあったろう。そして、跡始末のツケが、官僚側から、東大の青山らのところに回された——という格好ではあるまいか。  もちろん、青山らにとっては、悪い話ではなかったろう。積年、宿願の伝染病研究所が、掌中にころがりこんできたのだから。それも、すでに世界的な名声と、設備を兼ね備えた研究所にまで発展した姿で——。  移管の翌年、一九一五年、青山胤通は、医学部長と兼任の形で、伝研所長となる。そして「大いに改革整理に力を用いた」ということだ。 北里研究所の創設——自力で  同じく芝・白金の三光《さんこう》町に、「財団法人 北里研究所」の研究施設ができあがるのも、この一九一五年(大正四)であった。北里は、私財三〇万円を、この創設に投じ、全国の“同窓生”や支持者からは五万円を越す基金が寄せられる〔今日の、北里研究所及び北里大学は、これが発展した姿である〕。  他方、北里は慶応大学からの依頼に応じて、同大学の医学部の創設にも尽力。一九一七年(大正六)以降、一一年間その初代医学部長を務める。また、一九二三年(大正一二)、日本医師会が設立されると、推されて、その初代会長にもなっている。  北里が亡くなったのは一九三〇年(昭和五)。齢《よわい》、八十歳である。死に至るまで、彼はきわめて頑健であった。美食家であり、大食家でもあった。幼時から、川に親しんで育ったせいか、スッポンとウナギが大好物だったそうだ。  この年の六月一三日早朝、眠りについたたまま、なくなっている。死因は脳いっ血。「簡潔明朗な臨終であった」と、『北里柴三郎伝』は、記している。  北里柴三郎の稿を閉じるに当たり、このシリーズの最初の、序章で示した、二つの設問をここでもう一度、くり返しておきたい。  北里柴三郎の生涯と、その業績を見る限り、日本人には、科学・技術の創造性は、乏しかったのであろうか。  北里の創造性の発現を、妨げた、日本の社会のオモシは、何であったであろうか——。 〔注1〕『ローベルト・コッホ』ヘルムート・ウンガ著、宮嶋・石川訳、冨山房、一九四三年刊 〔注2〕ベーリングが、コッホよりも先んじて第一回ノーベル生理学・医学賞受賞となる経緯《いきさつ》については『ノーベル賞の光と影』(三浦賢一著、朝日新聞、一九八七年刊)の一二七〜一三七ページ参照。 〔注3〕『北里柴三郎 論説集』(非売品) 北里研究所・北里大学、一九七八年刊。 〔注4〕「支那風の友情道徳」=いうまでもなく古い封建的、儒教的道徳を指している。現代の中国の友人たちに対して、この「支那風の……」という表現が、失礼に当たらぬように、念のために、注記しておく。 〔注5〕『思い出の青山胤通先生』青山胤通先生生誕百年祭準備委員会(東大沖中内科教室)、一九五九年刊。 〔表1〕 1876年 コッホ〔独〕       脾脱疽菌の培養 1879年 ハンセン〔典〕      癩菌の発見 1879年 ナイサー〔独〕      淋菌の発見 1880年 エーベルト〔独〕     腸チフス菌の発見 1880年 ラヴラン〔仏〕      マラリア病原虫の発見 1881年 コッホ〔独〕       連鎖状球菌の発見 1882年 コッホ〔独〕       結核菌の発見 1883年 クレープス〔独〕     ジフテリア菌の発見 1884年 コッホ〔独〕       コレラ菌の発見 1884年 ニコライエル〔独〕    破傷風菌の発見 1885年 エシェリッヒ〔独〕    大腸菌の発見 1886年 フレンケル〔独〕     肺炎球菌の発見 1887年 ワイクセルバウム〔独〕  脳脊髄膜炎菌の発見 1889年 北里柴三郎〔日〕     破傷風菌の純培養 1892年 プェッファー〔独〕    インフルエンザ菌の発見 1894年 北里〔日〕および     ペスト菌の発見     エルザン〔仏〕      (それぞれ独立に) 1896年 アシァールおよび     パラチフス菌の発見     ベンゾード〔仏〕 1897年 志賀 潔〔日〕      赤痢菌の発見 (戻る)   第二章 高峰譲吉 渡米——独力のベンチャー・ビジネス けわしかった知的冒険の半生 タカ・ジアスターゼの創製 アドレナリン(世界最初のホルモン)の発見 北里がもの足らぬのであれば  破傷風菌の純培養から、血清療法の創始に至る北里の業績は、割りびいて評価せねばならない——という意見をよく聞くことがある。あれはドイツのコッホの指導でやったのだから、日本人の独力の仕事としては認めにくいというのである。  北里を過小評価したがるこうした見解に反論したいことは山々ある。が、とりあえず、いま、それには目をつむっておこう。  それはそっとしておいたうえで、日本人と科学・技術に関する創造性云々を問うときに、北里がもの足らぬというのであれば、次の“切り札”として、われわれは、高峰譲吉(一八五四〜一九二二)を紹介せねばならない。 二つの世界的業績——明治中期に  高峰には、世界的な業績が、二つある。  そのひとつは、強力な消化酵素「タカ・ジアスダーゼ」の創製だ。もうひとつは、副腎からのホルモン、アドレナリンの結晶単離の仕事である。学問的な意味からいえば、アドレナリンの結晶単離の仕事のほうを、より高く評価すべきであろう。それは生化学の扉、なかんずく、ホルモン化学の扉を最初に開いた業績であったからだ。  こうした一連の高峰の仕事は、一八九〇年から一九〇〇年(明治二三年〜三三年)にかけて、アメリカでなされたものである。しかし、アメリカのどこかの大学の研究室でやったものではない。だれかの教授のもとで、やったものでもない。  高峰は、日本人の助手こそ使ってはいたが、なにからなにまで独力でやったのである。彼は小さな研究開発会社をつくって、これをやったのである。現代のことばでいえば、まさに、ベンチャー・ビジネスそのものであった。 日本酒醸造技術をウイスキー製造へ  一八九〇年、アメリカに移住した高峰は、四年後に強力な消化酵素(のちに「タカ・ジアスターゼ」という商標になる)を創製する方法を見出している。肝臓をわずらう大病をしたり、当初の目的の研究契約が流産になったり、苦闘の中での成果であった。  ジアスターゼという澱粉糖化酵素そのものは、それ以前、一八三二年にフランスですでに見つけられていた。これは、単一の酵素ではなく、機能の似た一群の酵素の総称である。澱粉を溶化したり、糖化したりする作用をもつ酵素である。唾液《だえき》や膵液《すいえき》などの中にも存在しているし、米の麹《こうじ》や麦芽にも含まれている。アルコール醗酵には欠かされぬ酵素でもある。  もともと高峰は、日本酒醸造のもとになる麹の技術を、ウイスキーの製造に応用すべく、アメリカに渡ったのである。一八九〇年、明治二三年のことであった。  彼を招いたのは、イリノイ州にあったウイスキー・トラスト社(資本金三三〇〇万ドル)。ウイスキーの原液の製造業者で、当時、全米にわたって、ほとんど独占的に原液を供給する企業であった。ちなみに、アメリカにおいて、ようやく独占禁止法(シャーマン反トラスト法)が成立するのは、一八九〇年である。  南北戦争の終結する一八六五年ごろからあと、一八九〇年ごろまでの間は、産業の独占化が猛然と進んだ時代である。急速な産業革命を経ながら、アメリカ経済はまさに、世界の巨人へと膨脹し、成長していく。企業の吸収合併は野放しの状態だった。鉄道、石油、金融をはじめ、産業のあらゆる分野で、独占化が進む。「トラスト会社」というのが、あらゆる業種別につくられている。ウイスキー・トラスト社とは、そんな企業合併会社のひとつであった。 小麦フスマの麹《こうじ》で、麦芽《モルト》の代替を  ウイスキー精製の第一工程に当たる、醸造工程は麦芽(モルト)の糖化力を利用して、行なわれる。ウイスキーの原料が、コムギにせよ、トウモロコシにせよ、その原料を糖化し醗酵させるに当たっては、昔から麦芽(モルト)が用いられていた。ところが、この麦芽(モルト)を得るには、手間と時間がかかるのである。  麦芽といっても、この場合、コムギの芽ではなくて、オオムギの芽である。コムギと違って、オオムギそのものには、それほど用途がない。だからわざわざ麦芽(モルト)を得るためにオオムギを栽培、育成せねばならない。発芽期間だけでも、六日を要する。これに比べると、同じように、澱粉を糖化させる力をもっている米の麹は、四八時間でできあがる。  高峰は一八九〇年(明治二三)に、すでに麹に関する、ある特許をとっていた。「高峰元麹改良法」という。この特許はコムギのフスマ(麦の穀粒の皮)を原料とした麹の生産に関するものであった。  コムギのフスマは、アメリカでは廃物同然であった。世界一のコムギ生産国であるから、大量にフスマは出る。しかし、それはせいぜい、ウシかウマの飼料にしかならない。これを原料にして麹をつくり、その麹を麦芽のかわりに使って、アルコール醗酵がやれるのではないかというのが、高峰の主張であった。  アメリカのウイスキー・トラスト社は、早々とこれに目をつけた。そこで、高峰の渡米を求めたのであった。  しかし、約四年にわたる、ウイスキー・トラスト社と高峰〔正確にいうとタカミネ・ファーメント社〕との共同開発計画は、失敗に帰している。高峰の側に落ち度があったわけではない。ウイスキー・トラスト社の内紛と、それに伴う企業解散によって、この計画は途中で、流産してしまったのである。 “流産”の過程で、新しい収穫  ただ、この四年の間に、高峰はさらに新しくもうひとつの収穫を、ポケットに得ていた。それが、“強力なジアスターゼ”の産生方法の発見であった。  先にものべたように、ジアスターゼという澱粉糖化酵素は、単一のものではない。何種類ものジアスターゼを比較してみると、澱粉を溶化したり、糖化したりする作用には、優劣がある。高峰は、麦芽やら麹やらを扱う過程で、非常に強力なジアスターゼを産生する麹菌株を、捜し出したのである。それは、アスペルギルス属の糸状菌の一種、イウロシアム・オリゼという菌株であった。  コムギのフスマを原料として、この麹菌株を植えつけると、強力なジアスターゼが大量に抽出できる。このジアスターゼを精製して、消化薬として使用できないか——。高峰は一八九四年に、このテーマで一四件の特許をとっている。  デトロイトの製薬会社、パークデイビス社は、一八九七年に、これを胃腸の消化剤——大衆薬として、全世界に売り出して成功する。これが「タカ・ジアスターゼ」であった。  この成功によって、高峰とその家族はようやく生活の安定を得る。渡米後七年余の辛苦ののちに、彼の研究開発会社もひとまず認められたのであった。 副腎エキスからアドレナリン結晶を  しかし、高峰の学問的な業績として、もっとも高く評価されるのは、アドレナリンの結晶単離の仕事である。一九〇〇年(明治三三)のことであった。  これは、副腎から出ている内分泌物質を、つきとめる仕事であった。動物の体内には、内分泌によって、特殊な生理作用を営んでいる数多くの物質がある。あとになると、それらが全体として総称されて、ホルモンと呼ばれるのである。  今日われわれは、脳下垂体ホルモンとかインシュリンとか、性ホルモンとか、副腎皮質ホルモンとか、数多くのホルモン物質を知っている。このようなホルモン化学物質の第一例として、最初に見出されたのがアドレナリンであった。  副腎をしぼった汁(副腎エキス)に、血圧上昇作用があることは、一八九四年にイギリスの二人の学者が見出している。この副腎エキスには、強心作用と止血作用があることもわかっていた。それ故、副腎エキスには、治療薬としての大きな期待がかけられていた。しかし、副腎エキスのままでは、漢方の生薬《しようやく》のようなものだった。薬としての効力が、一定しないのである。夾雑物《きようざつぶつ》が多い。時がたつにつれて、腐敗し、変質しやすい。薬として使うと、嫌な副作用をしばしば伴った。  この欠点を除くためには、さらに精製して、有効成分のみを純粋物質として分離することが求められた。このテーマは、十九世紀の薬学界、医学界、化学界では、ひとつの重要な関心事であった。 アメリカ、ドイツの学者は不成功  一八九七年前後に、アメリカとドイツの学者が、それぞれ単独に、これに挑戦し、あいついで“純粋物質を分離した”と発表する。  アメリカでは、エイベル教授(J. J. Abel.ジョンズ・ホプキンス大学薬理学教室)。後年、インシュリンの合成で世界的に知られる、きわめて著名な薬理学者である。エイベルはエピネフリン(epinephrine)と名づけたものを、分離したと発表する。しかし、エイベルの示した結晶化の方法では、この有効成分は得られないはずだ。  そのことを、一九〇四年、アドレナリンの化学構造を決定したドイツのポーリイ(H. Pauly)が明らかにしている。  ドイツのストラスブルク大学では、フォン・フェルス(O. Von F殲th)が、ブタの副腎からとり出した有効成分だとしてスプラレニン(suprarenin)を発表した。しかし、これも薬としての効能(生理活性)のきわめて低いものであった。  このような学界の状況の中で、高峰は、パーク・デイビス社から、副腎エキスの有効成分の抽出を委託される。 助手、上中《うえなか》啓三の貢献で成功へ  この実験を実際に担当したのは、助手の上中啓三であった。彼は、東大薬学部の選科を出た青年で、東京衛生試験所などに勤務。しかし、選科(今日でなら付属短大)の出身であることの故に、日本ではふさわしいポストに恵まれない。二十三歳で渡米。一九〇〇年の二月から、ニューヨークの高峰譲吉のラボラトリーに参加したのであった。  当時、ニューヨークの高峰のラボラトリーはセントラルパークの西北端に近いあたりにあり、住居ビルの半地下階にあった。オフィスと実験室と物置とで、合計四〇平方メートルばかりという小さなものである。  高峰と上中は、パーク・デイビス社から提供されたウシの副腎エキスを使いながら、一種の真空蒸発法と、ワルピアン試験〔注1〕との組みあわせによって、はじめて、結晶化に成功したのである。これが、一九〇〇年七月二一日であった。  この実験方法は、ほとんど上中の考えによるものである〔注2〕。  得られた結晶は早々に、パーク・デイビス社に送られた。生理活性のテストをしたところ、スプラレニンなどに比べて、実に二〇〇〇倍も効力が高いことが立証される。副腎(Adrenal Gland)にちなんで、高峰は、この物質にアドレナリンという名をつけたのである。  翌年春までに行なわれた臨床実験でも、上々の成績が出た。この臨床実験(三五例)を担当したE・マイヤー(のちに全米耳鼻咽喉学会会長となる)は、「われわれは正に医学上の新世紀を画すべき大発見に出会ったといっても過言ではない」と報告している〔『フィラデルフィア医学雑誌』(Vol. 7-819, 1901. 4.)〕。  一九〇一年暮、ジョンズ・ホプキンス大学で開かれた生理学会で、高峰は、このアドレナリンの全成果を発表。集まった学者たちを、圧倒した。タカミネは、学界ではまったく無名の存在であったからである。 帝国学士院賞を受け、ノーベル賞候補にも——  アドレナリンは、まずは、その止血効果の故に、外科手術での不可欠の薬剤となる。さらに、強心剤としても、喘息発作《ぜんそくほつさ》時の治療剤としても、やがて広く全世界で使用されるに至る。 「アドレナリンなくして、治療なし」とまで一時はうたわれたものであった。  アドレナリン発見の翌年、第二のホルモンとして、セクレチンが見出される。ホルモン化学、そして内分泌学の扉は、こうしておもむろに押し開かれていったのである。  高峰の仕事は、当時、ノーベル賞の候補としても推薦されていたようだ。中山茂氏(科学史家・東大)が、その根拠となるデータを示している。中山氏は、著書『評伝・野口英世』(朝日新聞社刊)の中で、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての、日本の科学者で、ノーベル賞の生理学・医学賞候補に推薦されていた者として、北里柴三郎を始めとして、以下の七人を推定している。 一九〇一年 一名 志賀 潔 一九一二年 二名 秦佐八郎、高峰譲吉 一九一四年 一名 野口英世 一九一九年 二名 山極勝三郎、稲田龍吉 一九二四年 一名 加藤元一  高峰の仕事は、日本でもきちんと、承認されたものであった。  その当時、博士号の学位というものは、勲章のように文部省から授与されるものであったが、高峰は、まず、タカ・ジアスターゼの創製によって、一八九九年(明治三二)に、工学博士を贈られた。ついでアドレナリンの結晶単離によって、一九〇六年(明治三九)、薬学博士を与えられている。また一九一二年(明治四五)には、帝国学士院賞もさずかっている。 安政元年の誕生、“東大工学部”の一期生  このように、ノーベル賞級の業績を、明治の中期に外国で、しかも何の研究機関にも頼らず、独力で産み出した、高峰譲吉とは、いったいどのような人物であったのか——。  彼は、金沢の加賀藩の、藩医の息子である。生まれは一八五四年(安政元年)。ペリーの二度目の来航の年、そして日米和親条約が締結された年であった。北里柴三郎よりは、二年あとの誕生である。  十二歳の時に、藩からの留学生に選ばれて、長崎におもむき、オランダ語と英語とを学んでいる。一八六八年、十五歳で明治維新を迎えるころは、関西に転じて、大阪の緒方洪庵《おがたこうあん》の「適塾《てきじゆく》」に学ぶ。そのあと、大阪医学校、大阪舎密《せいみ》学校を転々とし、一八七三年(明治六)、二十歳で東京の工部省工学寮の官費生(修技生)に選ばれる。ここで、応用化学を六年間学んで、一八七九年(明治一二)に卒業する。卒業時には工部寮は、工部大学と改称しており、高峰は、その第一期生(総数二三人)であった。この工部大学が、東大工学部の前身であるから、高峰は、東大工学部の第一期生といってよい。  高峰にとっての(そしておそらくは北里柴三郎にとっても)、青春時代の思想的背景は、『自助論・西国立志伝』(一八七一年刊)であり、『学問のすすめ』(一八七二年刊)であり、そして『文明論之概略』(一八七五年刊)であったろう。  彼らの青春は『教育勅語』(一八九〇年)の影響を受けるべくもない時代であった。 「天はみずから助くる者を助く」と中村正直によって名訳された『自助論』(サミュエル・スマイルズ著)は、明治初年に、一〇〇万部を売ったベストセラーであった。福澤諭吉は新しく三田に移した慶応義塾で、『学問のすすめ』を五年にわたって講じ、「一身独立して一国独立する事を得《う》」と論じていた。  工部大学卒業の翌年、高峰は、三ヵ年の留学を命じられてイギリスへおもむく。一八九〇年である。彼の留学先は、しかし、イギリスでもロンドンではなく、グラスゴーであった。政治や学問の中心地ではなく、工業の、実学の中心地だ。彼はここで、二つの大学に籍を置き、市内と周辺の工場の現場を見学して回る。ソーダや人造肥料など、応用化学関連の実学を身につけたのである。 絶頂期のイギリスを体験  郷里への手紙の中で、二十七歳の高峰はこう書いている。 「当府は諸製造所多き個所にて、烟突《えんとつ》は数千本、雲を刺し、煤烟はほとんど天をおおう……(中略)当国政府にて此頃一大変革ありたり(中略)此までの太政大臣(守旧の党)辞職し、自由党の親玉グラッドストーン氏、太政大臣の位に昇れり、当国数百年以来の大変革なりという」  当時のイギリス経済は、世界の七つの海に広がって、すでに絶頂期にあった。国内は保守党ではなくて、自由党が優勢を誇る時代であった。グラッドストーンによる第一次自由党内閣が選挙法を改正して、農村労働者にまで、選挙権を拡大したころであった。  高峰は、そんなイギリスを、三年間体験して帰国する。帰国してきた彼は、何を考え、何を志向していたか——。 「日本固有の工業」への注視  海外からの優れた技術の導入に、彼が背を向けていたわけでは、けっしてない。しかし、それ以上に、彼の主たる関心は「日本固有の工業」に向けられていた。それは清酒醸造であり、和紙の製造であり、天然染料である藍《あい》の製造であった。  後年の、彼のタカ・ジアスターゼにつながっていく研究の糸筋は、すでにこのころから見え始めている。  彼の職務は、農商務省工務局勧工課であった。  一八八四年(明治一七)、アメリカのニューオーリンズで万国博が開かれると、日本政府の事務官として、会期中、現地に駐在する。  この博覧会の出展物の中から、彼はアメリカ産の燐鉱石に着目。これでもって、日本に人造肥料工場を創設することを考えつく。いうまでもなく、明治一七年当時の、わが国の農業は、化学肥料をまったく知らなかった。人肥と堆肥《たいひ》と、せいぜい魚肥(干したニシン)の時代であった。日本の農業生産力を高めるには、まず第一に、化学肥料の製造とその普及だと、高峰は考えたのである。  ニューオーリンズから帰国後、昇任して特許局次長となった高峰は、益田孝や渋澤栄一〔注3〕など、気鋭の実業家を説いて、東京人造肥料会社を設立する。  ヨーロッパからその製造機械を購入し、アメリカからは、燐鉱石を輸入して、燐酸肥料など化学肥料の生産をやろう——という筋書であった。  この肥料会社は、若干の紆余曲折を経ながらも、まずまず順調に発展。やがて明治末には、大日本人造肥料会社となって、日本での代表的企業のひとつとなるのである。 少女キャロラインとの出会い  ニューオーリンズの万国博での高峰はしかし、人造肥料よりは、もっと重大な人生の契機にも、めぐりあっている。  それは、少女キャロラインとの出会いであった。彼女、キャロライン・ヒッチは、その地の綿花農場主の娘、十八歳。高峰は、すでに三十一歳である。二人は博覧会の会期中に婚約して、三年後に結婚する。  この三年間に、高峰は日本へ帰って、東京人造肥料会社を創設。その製造機械を購入調達のために、再度、ヨーロッパへ。その帰途、もう一度、ニューオーリンズへ回って、結婚するのである。実に精力的な三年、といわねばなるまい。  キャロラインを伴って帰国。一八八七年(明治二〇)に、東京に居を定めた高峰は、官を辞して、人造肥料会社の経営に当たる。とはいうものの、“経営に専念”などといったさまでは、おそらくあるまいと思われる。  というのは、この会社の工場のかたわらに、「高峰製薬所」なる、小さな別の実験室をつくって、彼はいろいろな実験や試作に、手を出しているからだ。  高峰には、もともと学生のころから、そして、のちにアメリカに渡ってからも、街の発明家のような一面が、強く見られるのである。  工部大学のころには、知人に化粧品の店を出させている。そこで売るための、お白粉《しろい》だの、歯みがき粉を、彼は学校の実験室でつくっている。また、イギリスの留学から帰ってきたころには、「ヒュードロ社」という珍妙な名まえの小さな会社を友人と共同してつくったりもする。清酒の防腐法を考案して、その装置を製造販売する会社であった。  だから、官職を辞したとはいえ、東京人造肥料会社の仕事に“専念した”とは考えにくい。会社のほうの業績が、軌道に乗ってきて、役人なみの給料がとれるようになったので、さっさと官吏のほうはやめてしまった。そして、会社からの給料で、妻子の生活を支えながら、余暇の時間で、むしろ自分のやりたい実験に専念した——そんなところが実態ではあるまいかと私は思う。 高峰元麹《もとこうじ》改良法の特許  妻キャロラインとの間には、二人の男の児が誕生していた。 「高峰元麹改良法」の特許は、一八九〇年に認可。これが、コムギのフスマを利用して、麹をつくる特許であったらしい。  この特許のことは、ニューオーリンズにある、妻キャロラインの実家を介して、早々とシカゴのウイスキー・トラスト社に伝えられる。すでにのべたように、この時代のアメリカ経済は、まさに伸び盛りの青年期であった。発明と技術革新の時代でもあった。  アレキサンダー・ベルは、一八七六年(明治九)に電話を発明。トマス・エジソンは、七七年から九三年(明治二六)にかけて、蓄音機やら電球やら、活動写真やらを発明した。エジソンの最初の発電所と配電会社が、ニューヨークにつくられるのが、一八八一年(明治一四)である。ヘンリー・フォードは、一八九〇年(明治二三)に、最初の自動車をつくっている。  一八六〇年から一九〇〇年に至る四〇年間に、アメリカの特許局は、実に六〇万件の特許を認可したという。優《すぐ》れた発明が、一躍して億万長者をつくり出す、そんな時代であった。  だから、高峰の「元麹改良法」の特許も、たちまちアメリカの製造業者の関心をひいたのであろう。イリノイのウイスキー・トラスト社から高峰に、招へいの声がかかるのは、特許の認可と、ほぼ同時期であった。 けわしい知的冒険の途へ  こうなると、高峰の眼中から、もはや人造肥料会社などは、かすんでしまう。今日からみると、そして、はたからみると、このほうとても、けっして捨てた話ではないのである。渋澤栄一という、当時の財界の大立者も、バックにはついていたのだから。明治末年までには、日本を代表する大企業に実際、成長して行った会社である。しかし、日本に留まって、約束された安定と出世を待つには、高峰は多感であり過ぎたのであろう。彼の心は、よりけわしい知的冒険の途へと、すでに傾いている。  明治二〇年代の日本の社会と、一八九〇年代のアメリカの社会との、生活水準の落差もまた、アメリカ人の妻をもった彼にとって、無視できなかったに違いない。妻の実家がアメリカにあるということも、アメリカへの大きな手がかりであったはずである。  彼は、渡米して移住する覚悟を、早々に決める。  これには、人造肥料会社の出資者の筆頭である渋澤栄一が、困ったらしい。ずっとあとになって、高峰が死去した際の追悼会で、渋澤はこう述懐している。 「その時、私は大いに不平をいいました。さほど大きな資本ではないけれど、君のすすめで、私はこの会社をつくった。それだのに、その成功を見る前に、日本を去るというのは、はなはだ信義を欠いているではないか……」と。  ともあれ、高峰は、一家をあげて、一八九〇年(明治二三)アメリカに移住した。  彼が三十六歳。妻キャロラインと、二歳と一歳の息子が二人。それに麹づくりの職人として、丹波《たんば》の杜氏《とじ》藤木幸助を伴っている(藤木は以後六年間、高峰の助手として、アメリカでの辛苦をともにしている)。  ちなみに、高峰があとにした、当時の日本の状況を紹介すると、  東京大学には、まだガス、水道、電気は備わっていなかった。ウナギを焼くときに使うような炉に、炭火をおこして、有機化学の分析をしていたという。東海道の鉄道の開通は、前年の一八八九年。最初の帝国議会は、ちょうど一八九〇年に開かれている。鉄鋼生産は、釜石《かまいし》において、二五トン高炉が一基か二基、ようやく稼動し始めていた(日産約七トン)。  これに対して、高峰一家が向かいつつあるアメリカでは、  最初の大陸横断鉄道が完成(一八六九)してすでに二〇年余。北米大陸には、合計五本の横断鉄道が走っていた。鉄鋼生産量は年間一〇〇〇万トンに近づき、世界一の王座についていた。 シカゴへ、さらにペオリアへ  太平洋を渡って、サンフランシスコに向かう船の中で、高峰は、激しい腹痛を起こしている。一時はかなりの重態にもなったようだ。肝臓にトラブルがあったのである。一八九〇年(明治二三)の暮のころであった。  サンフランシスコで応急措置をしたあと、シカゴに着く。  シカゴでは、早々に「元麹改良法」による、アルコール醗酵の実験が始まっている。ウイスキー・トラスト社は、フィニックス醸造場に、実験室を用意してくれていた。醗酵させる原料は、トウモロコシである。実験の結果は、上々だった。  次の実験は、ウイスキー・トラスト社の本拠地である、ペオリア(イリノイ州)の町で行なわれた。そこは、シカゴから南西に約二四〇キロメートル、当時の人口は約五万。イリノイの穀倉地帯の中央にあって、イリノイ河の水運にも恵まれた地である。全米にわたるウイスキー関連業者が連合してつくったトラスト会社は、ここでウイスキーの原酒を製造していたのである。ここには、麦芽をつくる業者もいれば、アルコール醸造の業者も集まっていた。全米で、必要とするウイスキーの原酒は、ほとんどこのペオリアでつくられていた〔注4〕。 日産一〇〇トン規模を目ざして  当時、この町にあった醸造業者の一社での生産規模は、およそ日産一八〇トン〜二七〇トン。同じころ、日本の大手の業者の生産規模は、年間三〇〇石(約五〇〇トン)であった。だから、ペオリアの標準的な一社の、二日分の生産量が、日本の大手の、一年分にほぼ相当したのである。  シカゴで、まず基礎実験の成功を示したあと、高峰は、このペオリアに居を移して、実験規模をスケール・アップさせていく。三年がかりで日産一〇〇トン規模に、もっていこうというのであった。 「元麹改良法」によるアルコール生産が、こうして、のし上がっていったときに、最初に恐れをなしたのは、市中の麦芽製造業者たちだった。つまり、同業者である。彼らは、工場の労働者たちに、クビになる恐れがあるぞと、反対運動をけしかけた。 火事、外科手術、会社の解散  あれやこれやの嫌がらせのあげくに、失火だか、放火だか原因不明の火事となる。高峰の実験工場は全焼してしまう。  この間に、高峰の助手の清水鉄吉は、肺結核で死んでいる(一八九二年、シカゴで)。彼は東大出の工学士で、農商務省の技師をやめて、高峰に加わった者であった。  実験工場の火事は、一八九三年の二月ごろと推測されるのであるが、この火事のあと、高峰自身、再び、肝臓をやられて、倒れる。激痛と高熱と悪寒《おかん》とで生死の境をさ迷っている。頼りになる医者は、ペオリアにはいなかった。妻、キャロラインが奮闘して、自宅の近くの鉄道線路に、汽車を臨時停車させ、高峰をシカゴの外科病院にかつぎこんだ。  手術——ようやく生命をとりとめる。二ヵ月の入院だったとも、六ヵ月の療養だったとも伝えられている。  工場火災のあとも、ウイスキー・トラスト社の首脳部は、終始、高峰を支持し続けた。高峰の手術の回復をまって、同社の経営陣は、アルコール生産の五〇パーセントを、タカミネ法に切りかえることを決断する。  しかし、この決断は、わずか三週間でくつがえされてしまった。トラスト社の株主たちが、会社そのものの解散を議決してしまったからである。この株主の多くも、麦芽製造業者たちだった。  これが一八九三年(明治二六)の暮のころ。高峰にとっては四十歳のときのことであった。 「独立独歩」の精神  高峰と、ウイスキー・トラスト社との契約関係について、ここで、少し触《ふ》れておかねばなるまい。  彼はひとりの研究者として、もしくはひとりの技術者として、ウイスキー・トラスト社に雇われていたのではない。  シカゴに到着後まもなく、彼は「タカミネ・ファーメント(醗酵素)社」という小さな研究開発会社を創設。これと、ウイスキー・トラスト社とが契約を交《か》わしている。つまり高峰は、研究開発という仕事を、個人企業のビジネスとして始めようとしたのである。  このような仕事のやり方は、高峰自身に「独立独歩」の精神が、かなり断固としていなければやれないものではあるまいか。  もともと、高峰には、早くからそれらしい性向がみられている。先にも触れたように工部大学の学生のころには、化粧品の小間物屋に手を出したり、イギリスから帰ってくると、ヒュードロ社という小さな会社をつくったり。  彼は明治一〇年代の“学士様”である。しかも、洋行帰りの高級官僚でもある。じっと構えておれば、将来はまちがいなく保証されていたはずだ。にもかかわらず、あっさりと官職を捨てて、自分が音頭とりをした肥料会社に移っていく。それも軌道に乗りかかってくると、さっさとやめて、アメリカへ。そのアメリカでも、個人会社をつくって、やっていこうとする。  このような高峰の軌跡を跡づけてみると、これは、やはり「独立独歩」の生きざまと、いわねばなるまい。“寄らば大樹の陰”とは、およそ縁の遠い生き方ではないか——。  他方、アメリカの社会には、こうした「独立独歩」を尊しとする、あるいは当然と認める“土壌”が、すでに確固として存在していた、ともいえるだろう。  残念なことではあるが、当時の日本には、この“土壌”は、未だ培《つちか》われていなかったはずである。いや今日でも、未だじゅうぶんには培われていない——というべきかもしれない。  ウイスキー・トラスト社とタカミネ社との契約によると、共同開発を進めるに当たって、機械装置と実験材料とは、トラスト社側で負担。実験そのものの経費、人件費やデモンストレーションの経費などは、タカミネ社側の負担、ということになっていた。 挫折と失意の底で  が、ともあれ、ウイスキー・トラスト社との共同開発は流産した。  そんな挫折と失意の中で、高峰は、生き延びていくための、次の手を考える。おそらくは、懸命の想いで、まさぐったのであろう。ジアスターゼに関する、一連の特許は、そんな次の手のひとつであった。一八九四年に、この特許は認可されている。  もうひとつの次の手は、特許弁理士の資格を得ることであった。彼の本命とする研究の仕事では食えなくても、特許弁理士の仕事でなら、より安定した収入が得られる、と彼は目論《もくろ》んだのだ、と思う。彼は、この資格もとっている。  失意のうちにペオリアを去って、再びシカゴに一家が居を移したのは、一八九四年(明治二七)ごろ。彼は、たぶんシカゴで、日清戦争の報《しら》せを聞いたはずである。  一家(及びその郎党)の生活が豊かであるはずはなかった。キャロライン夫人は、陶器の下絵をかく内職をして、家計を助けたともいわれている。しかし、逆境下の暮しとはいえ、明治時代の日本の貧乏暮しとは、いささか趣きが違っていたことであろう。日本人の助手や、白人の助手やらを、まだ数人は雇っていたようだ。  シカゴの高峰は、特許弁理士をやりながら、今でいう、コンサルタント・エンジニアのビジネスで食っている。  印刷屋からの頼みで、印刷に使用したあとのグリセリンの回収法を開発するのも、この時代である。この際に、開発した技術を盗んで逃げ出そうとした、白人の助手が解雇になるという事件も起きている。 ジアスターゼの特許でパーク・デイビス社と契約  高峰のジアスターゼに関する特許が、デトロイトの製薬会社、パーク・デイビス社に売れるのは、こうした中であった。  キャロライン夫人の母親メリーが、このツナギ役を果たしたともいわれている。  これが、一八九七年(明治三〇)。  このパーク・デイビス社との契約からあと、彼のアメリカでの人生にも、ようやく陽が差し始める。彼とその一家は、シカゴからニューヨークに居を移す。  ここで、また、彼は新しく「タカミネ化学研究所」を設立する。それまでの「タカミネ・ファーメント(醗酵素)社」という名称では、業務範囲が「醗酵」だけに、狭く限定されてしまう。それを広げようとしたのではなかろうか。  ニューヨークでの最初の仕事は、セントラル・パークの北西端に近いあたりだった。  今から、七〇年以上も昔の、ニューヨークである。マンハッタンといっても、セントラル・パークの北のほうは、まだあまり開けていない。このころの古い写真では、トウモロコシの畑や低い灌木《かんぼく》の林も見られる。  高峰は、そんなところに彼の“店”を開いている。それも、ビルの半地下階であった。たぶん、このビルは、オフィス用のものではなく、住居用のものであったろう。このころ、ヨーロッパから流入する大量の移民のために、急ごしらえの、長屋ビル(row-house)が、このあたりには建ち始めていた。  彼のニューヨークでの最初の仕事場は、たぶん、そんなビルの半地下階だった、と思われる。事務をとる部屋と、実験室と、物置と、全部あわせても四〇平方メートルばかり。つまり一三坪そこそこだったと伝えられている。今日でいえば、町角の写真の現像工房のような、たたずまいだったのではないか。  パーク・デイビス社は、そんな高峰に、ジアスターゼに関する契約につづいて、副腎髄質からの有効成分の抽出を、委託したのである。 一九〇〇年七月二一日  ただし、この仕事は、一八九七年から約二年間というもの、ほとんど、はかどっていない。  これが急速に進み始めるのは、東京からやってきた上中啓三が、新しく助手として、タカミネ研究所に参加してからのことだ。上中は、一八九九年の暮に、ニューヨークにやってくる。東京衛生試験所をやめて、アメリカに新天地を求めて渡ってきたのであった。すでにふれたように、東大薬学部の選科(付属短大のようなもの)の出身であったため、日本の職場では、一生下積みで終らねばならない。それを嫌って、上中は、ニューヨークにやってきたのである。  上中の参加した一九〇〇年(明治三三)の二月以降、タカミネ研究所では、副腎エキスの実験が、急速に展開していく。アドレナリンの単結晶が、初めて、抽出されたのは、この年の七月二一日であった。上中は二十四歳。高峰は四十七歳。高峰にとっては、日本を離れてすでに一〇年の歳月が過ぎていた。 特許収入で億万長者に  タカ・ジアスターゼも、アドレナリンも、確実に効く薬であった。世界中で広く使われた薬であった(今でも、これらは使われている薬である)。  だから、高峰は、これらの薬の特許収入によって、着実に資産をふやしていく。それまでは、かなり重い負債もかかえていたのである。しかし、それも返済して、一九二二年になくなった時の、彼の遺産は二〇〇〇万ドルとも三〇〇〇万ドルとも伝えられている。  一九〇〇年のアドレナリンの成功のあと、彼が最初に手に入れた資産は、メリウオルド・パークの別荘地(山林)である。これは、ニューヨークの西北、約一六〇キロメートルの避暑地であった。ここに、純日本風の御殿建築「松楓殿《しようふうでん》」を移築。日米の賓客《ひんきやく》を迎えている。もともとこれは、一九〇四年(明治三七)、セントルイス万国博の会場に、日本政府が建てたものだった。博覧会のあと、その払下げを受けて、解体して、メリウオルド・パークに移築したのであった〔注5〕。 「松楓殿」の移築のあと、一九一〇年からは二年がかりで、ニューヨークのマンハッタンに、豪華なマンションを建設する。これは、今日、日本の不動産用語でいう“マンション”(小さなアパートメントハウス)のことではない。「豪邸」という、英語の本来の意味でのmansionである。  それは五階建ての、一棟の住居用のビルである。もっとも、この建物の左右には、壁を接して、似たようなビルが建ち並んでいる。だから写真(電子文庫版では割愛)でもわかるように、前面から見る限りでは、高級な造りを感じさせはするが、それほど豪華なマンションとはみられない。  このマンションの豪華さは、むしろ内装の面であった。それは当時、ニューヨークの市民の間でも、ちょっとした話題になったものらしい。一階から五階にかけて、各階を、奈良、藤原、鎌倉、桃山、江戸と日本の時代ごとの建築様式に模したデザインをこらしたのである。  この豪邸は、第一次大戦のあと、売りに出され、そのあと火事にあっている。だから、今はもう見ることもできない。 “国民外交”が主たる活動に  高峰は、アドレナリンの成功のあと、自分の研究所も、郊外に移している。ハドソン河の対岸の、ニュージャージー州のクリフトンである。研究所の名称も、Takamine Laboratory, Cliftonと変わっている。しかし、残念ながら、研究成果そのものは、クリフトンに移って以後、ほとんどみられない。  アドレナリン以後の高峰の主たる活動は、日本とアメリカとを結ぶ、“国民外交”に移っていく。マンハッタンの豪華マンションも、メリウオルド・パークの御殿も、こうした“国民外交”を繰り広げるための、いわば、私設の“舞台”に外ならなかった。  高峰自身も、その当時、このことを公言しているのであるが、実際、彼の遺した足跡をたどってみても、それはウソではない。  現在、ニューヨークに存在している、日本人や日系人のためのクラブや協会の、その大半に、高峰はかかわっている。高峰自身が創設したか、創設の中心になったものである。「日本クラブ」(The Japan Club 一九〇五)、「日本協会」(The Japan Society 一九〇七)などがそれだ。日米間の相互理解を深めるための、英文誌も、二年間、発行している。 「無冠の大使」というニックネームで、彼が活躍したのは、一九〇五年から一九二二年までである。日本では明治三八年から大正一一年にかけて、である。彼自身にとっては、五十二歳から最晩年の六十八歳までの一六年間であった。  この間には、日露戦争が終結し、アメリカのポーツマス(マサチューセッツ州)で講和が結ばれている。日本は、極東の軍事大国への道を踏み出し始める。朝鮮半島を併合し、南満州鉄道の利権を獲得して、中国東北部へ進出する。  一九一四年、第一次世界大戦が始まって四年間も続く。この大戦中のどさくさまぎれに、日本の大隈内閣は、中国を威嚇《いかく》する「二一ヵ条要求」をつきつけた。アメリカを含めて、世界の批難の的となる。  アメリカへの日系移民が一五万人を越えて、労働者摩擦を起こす。反日感情が燃え上がった。アメリカ西部を中心に、排日運動が巻き起こるのである。  高峰は、こうした一六年間を、私財を投じて、日米の摩擦解消に努力する。この間に、日米間で起きた大きな交渉ごとで、高峰のかかわらなかったものは、ないといってよい。 「国民的化学研究所」の提唱  すでにのべたように、一九〇一年のアドレナリンの発表講演で、高峰の研究者としての仕事には、ピリオドが打たれている。  しかし、このあと、科学技術の面で、彼が何もしなかったかというと、そうではない。  日本の産業界への、技術導入のあっせんを、いくつか手がけている。しかし、これらはあまり、うまく運んではいない。  むしろ高峰の、科学技術への、晩年の貢献として、特筆しておかねばならないのは、「国民化学研究所」の提唱である。これがきっかけとなって、やがて、財団法人「理化学研究所」が誕生するのである。  高峰の提唱は、一九一三年(大正二)、帝国学士院会員に選ばれて、帰国した際になされている。最初は「国民的化学研究所」というタイトルで、雑誌『実業之日本』(大正二年五月一五日刊)に発表したものであった。  時代は明治が終り、大正が新しく幕を開けたばかりであった。第一次大戦は、まだ始まっていない。  高峰は、おおむね、次のように提言する。  明治の躍進は、ヨーロッパの模倣によって成功した。模倣によって、日本は工業国として、「面目を一新した」。  しかし「模倣の出来る間は幸せである。……模倣は永久に期することを得ぬ。……我国民が自ら労せずして、他国人の苦心に成れる結果を模倣せんとするも、事実不可能である。……欧米到る所の工場は、我国人の視察を拒み、模倣せらるるを予防しつつあるではないか。模倣が悪くないとしても、今や既に出来ぬのである。我々日本人は、自ら研究し、自らの独創《オリジナリテー》を発揮せねばならない」  では高峰は、日本人が独創によって、何をやるべきだといったのか。彼はいう。  日本やアジア各地に豊富に存在していて、しかも捨てられている未利用な資源に目をつけよ——と。それは、たとえば「大豆のしぼり糟《かす》」だというのである。  ドイツの化学工業が、石炭の“しぼり糟”ともいうべきコールタールに着目し、これを研究して勃興した事実を、彼は例証する。  このような研究を、学理にもとづいて、組織的に進めるためには、一大研究所が必要だという。その基金としては一〇〇〇万円から二〇〇〇万円を必要とする。このころ、ニューヨークに創設したロックフェラー研究所の基金が、約一〇〇〇万円であった。当時、これは、最新鋭の戦艦一隻の建造費に、相当するものであった。  最新鋭の戦艦は、一五年もすれば廃艦の運命にある。しかし、同じ金を研究に注ぎこめば、一五年もたてば、じゅうぶんな成果が世に出るはずだと、彼は説く。 国民的に“開かれた”研究所を  しかしながら、高峰は、このような研究所を、ただ「官設」(「国立」や「公立」の意)で創ればよろしいと提言したのではないのである。 「国民的……研究所」というタイトルが、彼の意図するポイントを示している(傍点=飯沼)。  その当時、つまり大正の初め、数多くではなかったにしても「官設」の試験研究機関なら、すでにいくつかは存在していた。  しかし、こんな「官設」の研究所を創ったのでは、そこに勤務する「官吏」だけのものになってしまう。だから、 「国民的に何人でも志あるものが、之を利用するには、不便の感なきを得ぬ。……既設の設備はそれとして、別に国民的に何人でも研究しうる設備の必要を痛切に感ずるものである」  と、高峰は訴えている。つまり、彼が提唱したのは、従来からあったような研究所ではない。“国民的に、開かれた研究所”の必要であった。  当時、化学の分野だけでも、日本全体ですでに三五〇〇人程度の技術者がいた。大学や専門学校(注=旧制)を卒業した、これら三五〇〇人は「発明しうべき基礎的学問を備えている者である」。ところが、日常業務に追われて、彼らには「発明」の機会がない。時間がなく、金がなく、研究の場所がない。彼らの中には、 「天才を有するも、之を発揮すべき機会が与えられぬのである。これは彼ら化学者の不幸たるのみならず、国家の一大損失……」  と高峰はいう。彼自身は、独力で、頼るべき研究機関もなく、切り拓《ひら》いてきた男である。しかし、ペオリアで、シカゴで、彼が、どん底の研究生活に耐えていた時、おそらく、彼自身、こうした研究機関があったらと、深く願ったに違いない。彼の提言のあちこちには、彼自身のかつての体験や願望を、うかがい知ることができる。 『実業之日本』に発表した約一ヵ月ののち、築地精養軒で講演したのが「国民科学研究所の提唱」である。内容はほぼ同じであるが、高峰の主張の斬新性は、『実業之日本』の原稿のほうに、より明確に打ち出されている。  築地精養軒での講演というのは、渋澤栄一(子爵)が座長となり、当時の日本の財界、学界の主だった約一五〇人を招いて行なわれたものであった。 「理研」——の創設へ  この提唱の翌年、一九一四年に、第一次大戦が始まる。わが国とドイツは交戦国となる。ドイツからの高度な工業製品の輸入が途絶する。高峰の提唱は、にわかに現実性を帯びた要請として、クローズアップされた。  そして、一九一七年(大正六)、財団法人「理化学研究所」が設立されることになる。経済界の不況で、一〇〇〇万円の基金は集まらず、七三四万円の基金で発足している。  戦前の「理化学研究所」は、研究実績の面でも、収支経営の面でも、大きな成功を収めた研究所であった〔注6〕。  この研究所の基本構想に当たるものを、高峰は提示したのであった。それは、日本の科学技術に関する、彼の“遺言”というべきかもしれない。  一九二一年、ワシントン平和会議。そこに出席する日本政府代表のための、現地側での受け入れ体制に忙殺されたあと、一九二二年(大正一一)の七月、彼はニューヨークで生涯を閉じる。そのりっぱな墓廟は、今も、ニューヨークの、ウッドローン墓地に建っている。 〔注1〕ワルピアン試験とは、上中啓三が、雑誌『薬局の領域』(一九五八年のVol.7-No.9, Vol.7-No.10)での対談で語っているところによると、“ワルピアン(Valpian)が一八五六年に、副腎髄質中に、過クローム鉄で緑色を呈する物質を見出していた”という。この事実を、上中は何かの文献で知っていたようで、この手法によって実験にとりかかっている。もっとも、ワルピアンは、この“緑色を呈する物質”が何であるかについては究明していなかったようだ。また、このワルピアン氏自身がどのような研究者であるか、どこの国の人であるかについても、上中はほとんど触《ふ》れていない。 〔注2〕アドレナリン発見と上中啓三の貢献    アドレナリンの発見者は、従来、高峰譲吉一人の名になっている。しかしながら、今日からみると、これは当然、高峰・上中の連名で共著にせねばならないものである。    高峰も、アメリカ薬学雑誌へ寄稿した彼の論文には、謝辞の形で"My thanks and large share of credit are due to Mr. Wooyenaka"と、「上中」の名を明示している。また、生前、上中啓三自身も、高峰博士は「右腕になる上中なしには成功しなかったであろう」と報文に書いていた、と証言している。    上中啓三(一八七六〜一九六〇)は、兵庫県出身で、小学校卒業後、大阪・道修《どしよう》町の薬問屋に小僧となり、大阪薬学校を卒業。東大薬学科の選科(二年)に学ぶ。その後、同薬学教室で、研究助手をつとめ、X線用蛍光板の塩化白金酸バリウムの調製に成功。その後、東京衛生試験所で、硫酸ニコチンなどの調製や実用化試験を担当している。選科というのは、今日の付属短大のようなもので、ここの卒業では実力があっても、昇進は望めなかった。東京衛生試験所に二年間勤務して、そのことを痛く知り、彼は渡米を決意したという。一八九九年の暮、二十三歳で渡米して、翌年二月初め、ニューヨークの高峰譲吉を訪ねて助手となった。    東大選科のころから、長井長義教授(日本の薬理学の創始者。ぜんそくの特効薬、エフェドリンの開発で知られる)のもとで化学実験の腕をみがいた。伝聞によると、東京衛生試験所時代、田原良純博士のもとでフグ毒(テトロドトキシン)の解明にたずさわったというが、これは誤りである。上中自身が、この実験にはたずさわらなかった、と明言している。 〔注3〕渋澤栄一と益田孝 ともに明治時代の実業界の代表的人物。    渋澤(一八四〇〜一九三一)は、日本最初の銀行、第一国立銀行の創設をはじめとして、王子製紙、大日本肥料、大阪紡績、日本郵船、日本鉄道など、明治時代の近代産業のほとんどの創設に関与した。    益田(一八四八〜一九三八)は、明治時代の三井財閥の最高経営者。外国貿易のための先収会社を明治九年(一八七六)に創立。のちこれが三井家に吸収されて、三井物産となる。 〔注4〕ウイスキーなど蒸溜酒の製造は、大別して醸造工程と蒸溜工程とになる。第一段階の醸造工程では、コムギやトウモロコシなどの澱粉を糖化し、醗酵させて、低濃度のアルコールをつくる。このアルコールを、第二工程で蒸溜し、純度の高いアルコールの原液をつくる。この原液を、再び、低純度のアルコールで希釈《きしやく》したものが、ウイスキーなどのような蒸溜酒である。    ウイスキー、ブランディ、焼酎などが、この蒸溜酒。一方、日本酒、ビール、ワインなどは、醸造工程のみでつくった酒(醸造酒)である。 〔注5〕「松楓殿」は、現在(一九八四)も、この場所に建っており、約四〇万平方メートル(一二万坪)の土地つきで、売りに出されている。写真週刊誌『フォーカス』(一九八四年八月三一日)によると、現在の所有主は、ある石炭会社の社長未亡人で、内装外観は、昔とほとんど変わらない。メトロポリタン美術館が、重要文化財指定を検討中という。 〔注6〕現在の特殊法人「理化学研究所」(科学技術庁管轄)の前身が、戦前の財団法人「理化学研究所」である。これが、どのような研究所であったかについては、小著「旧理研にみる創造の構造」(『日本技術——創造への組織を求めて』東洋経済新報社、一九八三年刊所収)、また、板倉聖宣著『科学と社会』(季節社、一九七一年刊)を参照せられたい。 第三章 長岡半太郎 「土星型原子模型」は実らず 磁気歪では世界の第一人者だが…… 個人の重視、梯子制度の否定 弟子相伝をやめよ 科学自立、目印としての一九〇〇年  明治以降、日本の近代科学の軌跡をたどるとき、一九〇〇年(明治三三)は、ひとつの目印となる年である。  それは、ただ二十世紀への入口に当たる年というだけではない。日本の科学の自立を示す、いくつかの指標が、この年の前後に、明瞭に浮かびあがってくるからである。  北里柴三郎の破傷風に関する業績は、たしかに一足早いものであった。それは、一八九〇年代に先行している。しかし、北里の弟子である志賀潔は、一八九七年に赤痢菌を発見する。高峰譲吉のアドレナリンの仕事も一九〇〇年のことである。  近代科学の、日本への移植の中心は、周知のように東京大学であった。それは、一八七七年(明治一〇)に創設されている。当初、この教授陣の大半は、“お雇い外国人”で占められていた。これが、一八八六年に、帝国大学と改称するころになると、ほとんどのお雇い外国人が、日本人の教授に入れかわる。  それからやや遅れて、新しく育ってきた日本人の研究者による業績が、世界の学界に出始めるのである。そのようなひとつの節目になる時期が、ちょうど一九〇〇年前後であった。  技術の分野においても、本格的な鉄鋼生産が、九州・八幡《やわた》で始まるのが、一九〇一年であった。 世界の先端を拓《ひら》きそこねた——のであるが  この一九〇〇年に、長岡半太郎(一八六五〜一九五〇)は、パリで開かれた第一回万国物理学会に招かれて総合講演をする。「磁気歪《ひずみ》」が彼の演題であった。日本の物理学者として海外の檜《ひのき》舞台で認められたのは、これが最初であった。  この万国物理学会からの影響によって、長岡は三年後(明治三六)に、あの「土星型原子模型」の仮説を提出する。当時世界の物理学界では、原子というものが、どのような内部構造をしているか、まだつかめてはいなかった。  それはやがて、一九一一年から二五年にかけて、イギリスのラザフォード、デンマークのボーア、ドイツのハイゼンベルグという系譜を経ながら、解明されていくのである。しかし、一九〇〇年前後の時代は、原子の存在も構造も、まだ深いナゾのなかに沈んでいた。  長岡は、早くも一九〇三年——「明治三六年」という時期に、この大きな課題に立ち向かったのである。原子とは土星型の構造をしているのではないか、というのが、彼の仮説であった。すなわち、中心部分にあるのが陽電気を帯びた球であって、その外側を、おそらく数百から一〇万個ぐらいの電子が環状にとりまいている——という「概念《コンセプト》」であった。  結論だけをいうならば、長岡のこの仮説は、物理学としては、失敗に終っている。“原子の構造が土星型”——という「概念」のみに限れば、それはまちがってはいなかった。しかし、彼が提示したような「物理学」では、原子崩壊に伴う諸々の物理現象を解明することは、できなかったのである。  この本では、「世界の先端を拓いた明治の科学者像」を、論評しようとしている。しかしながら、長岡半太郎に関しては、実のところ、「世界の先端を、切り拓きそこねた明治の科学者」といわねばならない。  けれども、そのような失敗を、失敗と認めた上で、なおかつ私は長岡を高く評価する側に組したい。それは、彼の仕事が何よりも「明治三〇年」代という早い時期であったことによる。  一九〇三年という時代が、世界の原子物理学にとって早い時代であったということも確かである。しかし、それ以上に、日本の近代科学技術史という歴史的尺度でみたときに、「明治三〇年代」というのは、どうしても、非常に早い時期といわねばならない。そのような二重の意味での、早い時期に、近代科学がようやく定着しかかったばかりの日本から、世界の物理学の、もっとも中心的課題に挑戦しようとしたのである。  独創性というものは、本来、こわいもの知らずといった、のびのびとした大胆さに外ならないのかもしれない。長岡には、そのような大胆さが備わっていた。そこのところを、われわれはまず評価すべきではないかと、思うのである。 その仕事の量と、広がり  長岡半太郎に驚かされるのは、しかしながら、このような大胆さだけではない。その仕事の量と広がりである。  八十五歳という長い生涯のうちに、三四一編の論文を生産し、このうち、海外の学術誌に出したものだけでも七〇編弱にのぼる。Natureに一七編。Philosophical Magazineに一六編——世界の代表的な学術誌に、これくらいの論文が発表できる物理学者は、現在の日本でも、そうたくさんはいないであろう。  しかも、彼の学問領域は、現代の研究者には、ちょっとみられないほど広範囲にわたっている。磁気歪の研究に始まって、原子構造、分光学、コイルの研究、電波の伝播、さらには津波や地震などの地球物理学にまで及んでいるのだ。  さらに彼の貢献は、こうした学問自体の中身に関するものだけではない。学術行政に関しても、少なからぬ貢献がある。  東北帝国大学の、理学部の創設に当たって、旧理研の創設に当たって、また、大阪帝国大学の初代総長として、最後には学士院長として——。  ともあれ、長岡の学問的業績から一、二の代表例を紹介してみたい。  その第一は、「磁気歪《ひずみ》」の研究である。  一八八七年(明治二〇)に、「帝国大学(東京大学)」の物理学科を卒業、大学院に進んだ長岡は、磁気歪の研究を専攻する。これは指導教官であるノット(Cargill Gilston Knott)の影響であった。  磁気歪というのは、鉄やニッケルなどの強磁性体が、磁力の影響によって受ける変形(歪)のことを指している。それは、一八四二年、イギリスのジュールによって発見されたものだ。  この磁気歪の研究を進めていけば、原子や分子の構造がつきとめられるかもしれないと、一九世紀後半の一時期、物理学界ではかなり関心の集まったテーマであった。そんな状況の中で、ノットの指導によって、長岡はこの研究に手を着ける。一八八八年(明治二一)、長岡が二十三歳で発表した処女論文(「帝国大学理科大学紀要」)は好評であった。翌年、イギリスの学術誌Philosophical Magazineに転載される。それ以降、ドイツ留学の四年間を含めて、約一二年間に、彼は、磁気歪をテーマとした欧文の論文を全部で二〇編発表する(このうち五編は助手、本多光太郎との共著)。  こうした研究成果によって、長岡は磁気歪のエキスパートとしてまず認められ、一九〇〇年、パリの万国物理学会で、総合講演をしたのであった。  しかし、長岡の磁気歪の研究が、その当時の世界の物理学界の潮流に大きな影響を与えたかというと、そうではない。  磁気歪というある限られた領域での着実な成果をあげた研究者として、世界から認められた——それが、長岡に対するまず妥当な評価であるだろう。  したがって一九〇〇年のパリの万国物理学会に対して、長岡のなしえた貢献は、さほど大きくはなかったはずである。  それにひきかえ、この国際学会から長岡が受けた刺激は大きかった。新しく擡頭《たいとう》してくる原子物理学の領域に、長岡が足を踏みこんでいくのは、これ以降である。 「土星型原子模型」という彼独自の仮説が提示されるのは、このパリの万国物理学会のあと三年目、一九〇三年(明治三六)であった。 今世紀初めの物理学の状況  一九〇〇年の、パリの万国物理学会をとりまく、当時の物理学の状況は、ざっと次のようなものである。  原子が分割不可能な、窮極の粒子だとする自然観は、すでに崩壊寸前であった。  一八八五年には、X線が発見されている。翌年には、放射能が発見された。一八九七年には(マイナスの電気を帯びている)電子が発見され、一八九八年に放射性元素ラジウムが確認された。  これらの新しい物理現象は、もはや原子の分割不能論を否定する証拠であった。それは、一七世紀のニュートン以来の古典力学では説明のつかない問題となっていた(しかし、それでいて、原子の存在そのものがまだ実験的に確認されてはいなかった)。  原子が分割不可能な粒子ではないとしたら、それはいかなる構成になっているのか。二〇世紀初頭の世界の物理学界では、これがもっとも中心的課題であり、もっとも先端的課題であった。長岡は、そのことをパリ万国物理学会で、鋭く感じとったのである。  長岡の「土星型模型」よりはひと足早く、一八九七年、イギリスの物理学者ケルヴィン卿(William Thomson, Kelvin)がひとつの原子模型を提示している。それは陽電気を帯びた球の内部空間に、陰電気を帯びた電子が自由にとび回っているという「概念《コンセプト》」であった。この考えを引き継いで、イギリスのトムソン(Joseph J. Thomson)も、いくつかの試論を展開していた。  このようなケルヴィン——トムソン流の原子模型の「概念《コンセプト》」に、長岡は同意しかねたのである。そして「土星型」というまったく、あべこべの「概念《コンセプト》」を彼は提出したのであった。 長岡の仮説は——  長岡の「概念《コンセプト》」によると、原子の中心部分にあるのは、陽電気を帯びた球である。陰電気を帯びた電子群は、この球の外側をとり巻いている。その全体像は、ちょうど、小衛星群が環状にとりまいている土星のような格好ではないか——これが長岡の「原子模型」であった。  原子の構造をこのような「概念《コンセプト》」で考えれば、陽電荷球と電子群とは、力学的に、土星のように安定した系《システム》として成立するはずだ。そして原子の出す種々のスペクトル線の現象や放射能(α線やβ線)の現象も解明されるはずである——と長岡は主張した。  長岡は、この仮説によって、さしあたり原子のスペクトル線の現象を数値的に解析しようと試みている。  一九〇四年以降、彼はこのような所説を雑誌Natureに何回か発表して、世界に問うたのである。しかし、発表後、ただちにイギリスの物理学者ショット(G. A. Schott)によって反論をくらう。  ショットは、実際に数値計算をしてみると、土星型モデルでは、陽電荷球と、環状の電子群との力学的安定が維持できない、と指摘したのである。もっとも、そのショットも(また長岡自身も)、原子という極微小《ミ ク ロ》な世界での物理現象を、ニュートン以来の通常の力学(古典力学)によって解こうとしていたのであった。しかし、このような極微小《ミ ク ロ》な世界での現象は古典力学では解くことができない。  それは、量子論を基礎とした、新しい力学によって、初めて解明されうるものであった。にもかかわらず、ショットも、長岡も、まだこの新しい力学を知ってはいない。だから、長岡にしろショットにしろ、いずれにせよ、あとの世代からみると、役立たずの解といわねばならない。  この量子論は、最初ドイツのプランク(Max Planck)によって、一九〇〇年に提示され、一九一三年、デンマークのボーア(Niels Bohr)によって、原子構造に適用される。そして、一九二五年、ドイツのハイゼンベルク(Werner Heisenberg)によって量子力学として確立していったものであった。  あとになって整理してみると、物理学の発展はこのような流れになる。だから、長岡の仮説も「概念《コンセプト》」だけに限ればともかく、物理学としては、たちどころに破たんをきたしたのである。ただ、原子の中心部にあるのが陽電荷球で、電子がその外側にあるという「概念《コンセプト》」だけは生き残った。 長岡の仕事と、ラザフォードの仕事  そして、イギリスのラザフォード(Ernest Rutherford)は、一九一一年、この新しい「概念《コンセプト》」を、かなり別の攻め方で実証したのであった。  長岡の攻め方は、原子のスペクトル線を手がかりとした、分光学的なものであった。これに対して、ラザフォードは放射線の一種であるα線を金箔《きんぱく》の原子にぶつけた際の、散乱現象を解明するという攻め方であった。この実験の結果として、原子の中心部を占めるものは、どうしても陽電気を帯びた核でなければならない——と結論づけたのである。  これによって、ケルヴィン——トムソンの原子模型は完全に否定された。長岡のそれは、「概念《コンセプト》」としては正しかったことになる。  しかし、このラザフォードの実験を、長岡からの影響とみることは、むずかしい(もっとも、ラザフォードは長岡の論文を知っていたはずと思われるのだが)。ラザフォードは、長岡とは違った視点から、独自の攻め方によって、この問題は解明したというべきだ。したがって、長岡とは違い、ラザフォードは、原子核と、その外側をとりまく電子とが、力学的に安定かどうかという課題には触れないですませている。それは、ラザフォードの原子核実験以後も、依然、未解決のままに残されたのであった。  そこのところを、解明したのがボーアである。一九一三年、ボーアはすでにプランクの提出していた量子論の考え方を導入して、原子模型の力学的安定の問題に、カタをつけたのである。  ともあれ、長岡の仮説は物理学発展の本流の中には組み入れられなかった。  ただ、それならばその当時、ヨーロッパの学界で、まったく無視されていたのかというと、そうではない。一九〇四年から一〇年ごろにかけての一時期、長岡の提案はヨーロッパの物理学界でも、それなりの関心を集めている。フランスのポアンカレ(J. H. Poincare)は彼の著書『科学の価値』(田辺元訳、岩波文庫)に引用して紹介している。またイギリスやイタリアの物理学の教科書にも、このころ新説として記載されたりもしている。  しかし、結局のところ、長岡説は、物理学としての承認を受けられなかった。彼自身も、一九〇七年ごろには、すっかり行き詰まってしまう。  長岡は、このあと、一九二四年(大正一三)に、水銀を金に変換させるという、これまたセンセーショナルな実験を試みたのであるが、これも完全な失敗であった。  このような長岡の仕事を、北里柴三郎や高峰譲吉の仕事と比較してみると、学問上の業績としては、決定打が出なかった、といわざるをえまい。 創造性の観点から長岡をみると——  しかしながら、他方、日本人と創造性という観点からするならば、長岡の存在は、ひとつの貴重なデータを提供してくれている。  というのは——。  日本人は(日本の学者は)、もっとも基本的な課題、根源的な問題にとり組むことが稀《まれ》である。往々、小手先の研究に終始している——という批判をしばしば耳にするからなのである。それならば、長岡の存在はどう考えればよいのか——。  彼は東京大学の物理学科の卒業生としては、たしか一〇人目あたりのはずである。つまり、日本から自前の物理学者が出始めて、早くも一〇人目には、これぐらい根源的なことを考えようとする人物が出現してくるのである。  未だ草創期の東京大学(理学部)である。研究設備が潤沢《じゆんたく》であったはずはない。物質的な研究環境という面からいえば、恵まれているはずはなかった。  その反面、草創期であったが故に、社会的な制約や学界の束縛は少なかったであろう。これは私の見方であるが、物質的な意味での研究環境が少々整っていなくても、社会的な制約や束縛こそ少なければ、長岡のような大胆な発想は、おのずから育ってくるのではあるまいか——。  われわれは長岡以後、長岡のような“野放図な”物理学者が、日本の物理学界に何故、輩出しなかったかを、むしろ考えこまねばならない。  もっとも長岡のあとに、日本の物理学界から大胆な発想が、まったく出なかったなどと、いうつもりはない。現に、昭和期に至ると湯川秀樹、朝永振一郎らのノーベル賞の仕事がつぎつぎと出てきている。またそれ以前にも、X線解析の手法によってスピネル群結晶体(MgAl2O8)の分子構造を明らかにした西川正治の仕事や、電子の回折現象を、より明確にした菊池正士の仕事などがみられてはいる。だが、それはそれとしながらも長岡以後に、ある種の沈滞があったことを、われわれは否めないように思う。長岡の弟子に当たる寺田寅彦の記録などには、その痕跡がいくつか、うかがえるのである。  長岡自身もこのことに関して、数多くの貴重な見解を残してくれている。  わが国の社会風土の中において、創造活動を妨げているものが何であると、長岡は考えていたのか——。  長岡の、そんな思想はのちほどくわしく紹介する。ここでは彼の思想の背景を知るために、ひとまず、さっと駈《か》け足で彼の年譜をたどってみたい。 八五年の人生、官僚嫌い  長岡半太郎は一八六五年(慶応元年)に生まれ、一九五〇年(昭和二五)死んでいる。慶応から明治、大正、昭和にわたる八五年という長い生涯であった。日清、日露の戦争はもとより、第二次世界大戦の空襲をも、くぐり抜けた人生であった。明治の文明開化を知り、大正デモクラシーを経験し、第二次大戦の敗戦による日本社会の民主化にも触れた一生であった。  しかし、われわれがすでに見てきた北里柴三郎や高峰譲吉の生涯に比べると、長岡半太郎の人生は、それほど波乱に富んではいない。彼の生涯は、学者官僚という域を一度も踏み越えてはいない。  だが、だからといって、彼が、官僚に甘んじていたか、というと、それは断じてそうではなかった。金モールと勲章によって象徴される官僚制を、彼は激しく嫌悪したのであった。研究者としての創造活動に、官僚制がいちじるしく有害であることを彼は認識し、指摘する。  もちろん、長岡自身が、学者官僚の大御所《おおごしよ》ではあった。だから、彼自身が後進の学者を妨げた面も、あったようである。長岡の、この一面に触れて、湯川秀樹もこう書いている。 「先生の断案が否定的であったが故に、萎縮させられてしまった学者が少なくなかったと聞く。……先生の見識は、功のほかに罪をも伴っていたことを認めざるを得ない」と。  そのような、長岡の「罪」を承認した上で、なおかつ彼が、何を指摘しようとしたのか。そこのところを、とりわけ彼に聞きただしてみたいのである。  長岡の誕生地は九州・肥前《ひぜん》の大村《おおむら》である。今の長崎県大村市。父は大村藩士で、明治維新の折、官軍に加わって東征している。明治四年には、岩倉具視《ともみ》の遣欧米使節団の随員となって、海外も見聞する。帰朝後は東京府、大阪府、福岡県などの学務官僚である。したがって、幼時期から長岡半太郎の教育環境は悪くはなかった。  一八八二年(明治一五)、十七歳で東京大学(理学科)に入学。翌年、例の休学をするのである。これについてはすでに序章の中に書いておいた。ここでは省略しよう。  一八八七年(明治二〇)、二十二歳で大学を卒業。大学院給費生となる。磁気歪《ひずみ》に関する処女論文の発表は翌年である。二十五歳で助教授となり、二十八歳で理学博士。これまた磁気歪に関する研究であった。このころ、濃尾地震(一八九一)をきっかけとして、地磁気の測定なども手がけている。  理学博士になった年の一八九三年(明治二六)、ドイツへ留学。ベルリン、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンと、各大学を回って、ヘルムホルツ、ボルツマン、プランクなどの講義を受ける。日清戦争の開戦(一八九四)を、ミュンヘンで聞き、一八九五年、レントゲンによるX線の発見をベルリンで知る。  一八九六年(明治二九)、秋に帰国。三十一歳で応用数学講座の教授に昇任。京都帝国大学の創設は、この翌年であるが、これには長岡は関与していない。  長岡の研究テーマは、依然として磁気歪が主であった。これに光の回折現象の研究、岩石弾性率や地震波の研究などが加わっている。磁気歪の研究に関連して、このころ助手、本多光太郎との共同研究が注目される。  一九〇〇年(明治三三)、パリで開かれた万国物理学会で総合講演。三十五歳であった。  この学会がきっかけとなって、原子物理の領域に入りこんでいく。一九〇三年暮に、「土星型原子模型」を発表。三十八歳である。翌一九〇四年(明治三七)には、日露戦争が始まる。その次の年にアインシュタインが相対性理論を発表する。  四十一歳で、長岡は早くも帝国学士院会員になる。しかし、このころになると「土星型原子模型」の研究は、ほとんどいき詰まっている。 断念させられた仙台行き  一九〇九年(明治四二)、東北大学の創立準備委員。長岡自身、その理学部長(理科大学長)に内定する。四十五歳である。新設の東北大の教授候補として、本多光太郎、石原純などを選考。そのあと、ヨーロッパ視察旅行に赴《おもむ》く。だが、半年後に帰国すると、東北大行きは中止となる。東大当局の強い要請で断念させられたのである。  ラザフォードの原子核確認の実験は、一九一一年であった。  一九一二年(明治四五)には、先のヨーロッパ視察の報告ともいうべき「欧州物理学実験場巡覧記」を雑誌に連載の形で発表する(『東京物理学校雑誌』)。このころから、長岡の研究論、研究者論、あるいは研究組織論が聞かれるようになる。  一九一三年(大正二)、東大理学部の学園祭(ニュートン祭)では「大器早成説」を講演。  ボーアによる、量子論に基づく原子模型の発表もこの年であった。  一九一七年(大正六)、財団法人、理化学研究所が設立され、その物理部長に——。五十二歳。東北大の教授に送りこんだ弟子、本多光太郎は、この年、世界最強の磁石鋼である「KS鋼」を発明する。  一九一八年、長岡は「教授の黜陟《ちゆつちよく》」と題するメモを自分のノートに記している。「黜陟」というのは功績のない者をしりぞけ、功のある者を推挙するという意。長岡のこのメモは、年功序列を批判する見解として、注目しておきたい。  このころから長岡の仕事の場は、しだいに理研(理化学研究所)に移っていく。東大工学部電気の出身である仁科芳雄《にしなよしお》が、東大・大学院では長岡の門下生となり、理研のほうでも長岡研究室に入る。この仁科が、やがてヨーロッパへ留学、ラザフォード、ボーアのもとで学んで帰国し、理研での原子物理学の中心メンバーとなる。  一九一九年ごろ、長岡は理研での実験要員として、工業学校卒の青年二人を採用し、アメリカへ留学させる。一九二二年(大正一一)、桜井定三を共著者として『楕円関数表』を出版。この桜井も大学卒ではない。理研の「雇員」であった。この年、関東大震災がおきる。  一九二四年には、水銀還金理論をNature誌に発表。つづいて、その実験を理研の長岡研究室で行なう。その還金実験に成功したと発表して、ジャーナリズムをにぎわすのであるが、これは化学分析のミスであった。完全な失敗であった。五十九歳である。  翌一九二五年(大正一四)、国際天文学会に出席して、ケンブリッジ大学から名誉学位を受ける。この年、ドイツのハイゼンベルグは量子力学を確立した。東大では地震研究所を新設。一九二六年、長岡は六十一歳で東大を定年退官する。  一九三一年(昭和六)、新設の大阪帝国大学の総長に、“嫌々《いやいや》ながら”就任。六十六歳。その開学式に、ケンブリッジ大から贈られた緋色のガウン(名誉学位のガウン)を着用して出席者を驚かす。「新しい、この大学ではいやしくも、このような時代錯誤《アナクロニズム》の形式主義に陥らぬように」と、身をもって警告した。満州事変がおこるのはこの年である。一九三四年には貴族院議員に——。  そのあと、大阪大学総長を、膀胱結石のために辞任する。湯川秀樹(当時大阪大学理学部講師)の中間子論の発表も、この一九三四年であった。 同門主義への批判——「爆弾講演」  一九三六年(昭和一一)、東北大学創立二五周年の記念式典で講演し、研究後継者の選考に際しての同門主義を厳しく批判する。それが「爆弾講演」と受けとめられた。  翌一九三七年、第一回文化勲章を受章。日中戦争はこの年にはじまっている。一九三九年(昭和一四)、日本学術振興会理事長と、帝国学士院院長に。七十四歳であった。  太平洋戦争が始まるのは彼が七十六歳の時。大戦中は、「原子兵器」の開発に参画して、陸軍や海軍の審議会メンバーになっている。  一九四五年、齢八十歳で日本の敗戦を迎える。二年あとに理研の長岡研究室は解散。日本学術振興会の理事長も学士院院長も辞任。要職をすべて去る。この年五月、慶応大学九〇周年記念祝賀会に出席のあと、福澤諭吉の『福翁自伝』を読了。日記にこう書いている。 「……興味たっぷり。其思想が予と相似ているは喜ばしい。維新からの騒ぎが理想に叶っているのは、何より興味を惹き、思わず夜22〔時〕まで読んだ」 「……其政府旧藩等に対する点は、符節を合すが如く予と意見を同《おなじ》うす。又幕府の腐敗を指摘している諸点は当然だ。今日といえども同様な処がある……。」  ここで長岡が共感を示した福澤諭吉の思想とは何であったか。それは封建門閥への嫌悪であった。佐幕派にも勤皇派にも共通する、タテ社会の階層秩序であり、かつその意識であった。 「封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序を立て居て、何百年たっても、ちょっとも動かぬという有様」を福澤は、自伝の中で「親の敵《かたき》で御座る」という。「腹の底から嫌だ……」とも書いている。それが明治維新で崩れていく。だから福澤にとっては、幕藩体制の秩序の崩壊は、嬉しいことであったのである。  長岡は、日本の敗戦を徳川幕藩体制の崩落《ほうらく》にも似た感懐で、受けとめていたようだ。  彼は、八十五歳の生涯のうちに二度、結婚するのであるが、いずれの妻にも先立たれている。最初の妻、操《みさ》子との間には幼死した一人を含めて、三男一女をもうけている。が、操子は一九〇二年(明治三五)、三十八歳で若死。あとの妻とよ、との間には五人の息子をもうけ、そのうちの一人が幼死。妻とよも、長岡よりは先に、一九四六年(昭和二一)、七十六歳でなくなっている。  長岡自身の死は、一九五〇年(昭和二五)、八十五歳であった。 長岡半太郎の思想  先にも書いたように、長岡半太郎の物理学は、世界の最先端を切り拓《ひら》くことには失敗している。原子の構造がどうなっているかという世界の最先端の課題に、彼は大胆に挑戦をした。彼の目をつけたネライもよかったのである。しかし、物理学という学問としては、彼の挑戦は残念ながら、結実しなかった。だから、今日の時点で、世界の物理学史を書こうとするとき、長岡の存在には、触れないですませることができる(日本の物理学史や科学史にとっては、無視することのできないものではあるが……)。  しかし、それとは別に、彼は八五年という長い生涯にわたって、物理学者としての研究生活のかたわら、数多くの教訓を書き遺《のこ》してくれている。その教訓のほうが、現代のわれわれにとって、今だに役立つもののように私は思う。  長岡に限らず、物理学者というのは、理科系の学者の中では、比較的よくものを書いてくれる。しかも、研究はどうあるべきだとか、研究組織はどうあるべきだ、というような、いわば研究の方法論について、物理学者はよく発言する。これは、化学者や生物学者などに比べても、かなり目立った特徴である。それが物理学という学問の性格に由来するものか、あるいはそれが、日本だけの特徴なのか。今は問うまい。  ともあれ、この本で採りあげている五人の科学者の中でも、長岡には、こうした著作がもっとも豊かなのである。専門分野そのものに関する論文でも、彼は多産であったが、研究者論、研究組織論などに関しても彼は少なからぬ著作を遺してくれた。  日本人が、もっと創造性を発揮しようとしたときに、どうあらねばならないか、長岡に、そこのところを語ってもらおう。いってみれば、飯沼風にアレンジした“半太郎語録”である。 第一に人《ひと》、第二に人《ひと》 「研究は第一に人による、第二に人による、第三に設備も相当考えなければならぬ。その第三に位するものをもって、第一となすのだから、官僚式分配には便利であろうが、本来を間違えている」  七十四歳の長岡は、一九三九年(昭和一四)の日記にこう記している。文部省科学研究費(三〇〇万円)の配分を審議する、学術研究会議に対する彼の批判の一節である。当時、長岡はこの会議の副会長を務めていた。しかし、会議のメンバーの主流である現役の学者たち(寺沢寛一・東大教授ら)は、大学や研究所の規模を基準として研究費の配分をしようとした。長岡のいう「官僚式分配」とは、そのことを指している。そのような考え方に、長岡は批判的だったのである。が、彼の考え方は結局は受け容れられず、大騒動が起きる。その後、遠からず、彼はこの職から身を引くことになる。  研究は設備よりも人《ひと》で決まる——と長岡が思いこむようになるのは、一九一二年(明治四五)ごろからであった。その当時、新設の東北帝国大学の理学部長(理科大学長)の候補に、彼は内定していた。それの含みで、一九一〇年の後半、長岡はヨーロッパ各地の大学や研究所の視察に出かけている。当時四十五歳であった彼は、新設大学の理学部長として、どのような研究者を集めるか、どのような設備を整えるか、どのような研究組織をつくるか——それを当然、考えねばならない立場に立っていた。帰国したのち、東京物理学校雑誌に連載した『欧州物理学実験場巡覧記』には、長岡のそのような立場での見方、考え方がはっきりと示されている。  この「巡覧」旅行の途次—一九一〇年の秋—彼はマンチェスター大学に、ラザフォードの研究室を訪ねている。ラザフォードの、あの有名な原子核確認の実験は、翌年春の発表であって、この訪問は、それ以前である。長岡は、この時期のラザフォードの実験室をこう書いている。 「教授の得意とするのは、きわめて粗造なる器機で見事な結果を出すのである。その使った器械は実に見すぼらしいものばかりであるが、その得た事実は学問社会を聳動《しようどう》するに足るもののみで……」  このラザフォードの訪問のあと、長岡はベルリンのドイツ博物館で、ヘルツの電気実験の跡を見る。またウィーンでは、レントゲンがX線を発見した部屋を見る。これらに共通するものとして、長岡はいう。 「大発見は必ずしも大設備を伴っているものでなく、矢張り確《しつか》りして明瞭なる頭脳を備えている人に限ることが分かる」  このくだりは、彼自身が格別に傍点までつけ加えている。  こうした長岡の、人物中心主義に対して現代からする批判は、さだめし手厳しいであろう。  長岡なんぞは十九世紀の時代錯誤《アナクロニズム》もいいところだ。彼は現代の巨大科学《ビツグサイエンス》の威力をまったく知らなかったから、人物中心主義などといえたのだ——と。  たしかに、長岡が、現代の巨大科学や巨大技術を知るはずはない。しかし、彼は彼の生きた時代での“巨大科学”は、しっかりと目のあたりにしているのである。それとの比較の上で、彼は人物中心主義を力説する。  同じ『巡覧記』でも、ウィーンの大学を訪ねた印象を、彼はこうのべている。 「午後、電気工学教室に案内されて、変圧器の極めて大なるエネルギーを送るものを見た。(中略)この教室は約百二十万円を費したものであるが、その設備の宏大完備せるは他に比類なしとは思わるる。しかし、かくの如き、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》を尽して修業した学生には余り逸物《いつぶつ》は居らぬと見えて、設備に比しては一向相応の研究が出ないようである。是《これ》で見ると、教室の設備如何《いかん》を論ずるよりも、教授の頭脳を論ずる方を先にせねばならぬ……」と。  長岡の、この時の外遊の目的は、そもそも何であったか? 彼は新設する東北大学のために、実験設備を買いつけるべく、ヨーロッパ各地を巡覧していたのである。だから、設備の重要性を軽視し得る立場ではない。その彼がいっているのである。設備をつくるにしても、まず人だ。優秀な研究者に、金をつけ、設備をつけるのなら結構だ。だれが優秀であり、だれが優秀でないかを、まず論じて、それによって、設備のいかんを決めるべきと考えたのであった。  七十四歳になったときも、この持論は変わってはいない。だから、三〇〇万円の研究費を配分するに当たっても、「学校・研究所主眼に」、「官僚式分配」をしたのでは「到底成功しない。必ずや人物本位……」でなければならぬ、と彼は強調したのである。 大器は晩成ではなく早成  長岡のいう「人物本位」は、わが国で根強い年功序列の秩序感覚を、おのずから否認するものでもあった。  一九一三年(大正二)、東大理学部の学園祭(ニュートン祭)で、彼は大器は「晩成」ではなくて“早成”だと講演している。それは「ラグランジェ先生 小伝」という題で語られたものであった。  長岡が自分で述懐していることであるが、もしも物理学者の途《みち》に進まなかったら、自分は歴史家になっただろうと、いっている。それくらいであるから、過去の物理学者に関しても、彼はよく伝記を調べており、短い小伝を多く書いている。  この年の学園祭では、フランスの数学者ラグランジェ(Joseph L. C. Lagrange一七三六〜一八一三)について、長岡は語ったのであった。ラグランジェとは、群論や解析関数論の創始者だが、その紹介をしながら、長岡は、こういっている。 「予は先生の伝を読み、ひそかに感じるところあり。先生の偉業は十八、九歳の時すでに萌芽し、漸次成熟して三十歳後の研究は、もっぱらこれが開拓を謀《はか》りたるの観あり。これを他の大業をのこせる科学者に徴《ちよう》するも亦《また》これに類するものもあり。……」  長岡は、ニュートン、ガウス、ヘルムホルツ、マックスウェル……などなどの物理学者が、彼らの生涯のいつの時代に、もっとも優れた業績を挙げたかを例証する。調べてみると、ヘルムホルツのエネルギー保存則も、マックスウェルの電磁気論も「みな二十五歳を出でざる年齢においてほぼ大成」している。  ところが、わが身辺をかえりみると、日本の教育制度は大器晩成型にできている。早成型の大器を、育てないようになっている。そのことと、日本の科学が画期的な成果を産み出し得ていない事実との間には、何か関連があるのではないか、と長岡は憂えるのである。 「本邦における科学は、概《おおむ》ね小刀細工《こがたなざいく》的のものにあらざれば、千篇一律の攻究にして、その数と容量とにおいて年々増加するといえども、その実質においては、欧州における新時期を画せる研究に対して、甚《はなはだ》しく遜色《そんしよく》あり。これまことに憂慮すべき状態にして……当事者の熟考を煩《わずら》わさざるを得ず。予はニュートン、ラグランジェの如き麒麟児《きりんじ》が本邦に生《うま》るるも、四囲の事情に制せられ、遂に〓櫪《そうれき》の間に斃死《へいし》するを虞《おそ》るるものなり」  〓櫪とはうまやのこと。つまり、ニュートンのような早成の天才が、日本に出現したとしても、現今の日本のような事情(大器晩成型社会)では、その天才は若くして、うまやの中で殺されてしまう恐れが強い——と、長岡は指摘した。  彼の、この大器早成論は、このあとも何度か繰り返して、しつこく主張されている。 「昔から大器晩成という事がよく口にされて居るが、此れは支那流の言い分である。科学を研究して居るものに取っては、此の言葉は必ずしも当てはまらない様に思はれる」  これは一九三三年(昭和八)、長岡が東京工大で講演した一節である。彼の著作『随筆』(改造社、一九三六年刊)にも「大器晩成の誤解」という題で収録されている。  長岡は単に、ことばの上で、主張しただけではなかったようだ。一九二一年(大正一〇)の理化学研究所の所長人事に際して、この線で、大河内正敏博士を強く推挙したらしい。大河内は当時としては異例の若さ、四十三歳で、研究所長に就任している。そのあとの理研は、実にみごとな発展をとげるのである。この所長人事の背景と、長岡の思想との関連を、板倉聖宣氏は、彼の別の著書〔注〕で推論している。その板倉氏の推論は、私にも、ほとんど納得のできるものであった。  ともあれ、長岡の主張はこうである。  大器晩成をもってよしとする教育体制、社会秩序の中では、ほんとうに才能のある「人」はつぶされてしまう。大器は晩成ではない、大器は早成なのだということを、社会はまず認識せねばならない——と。  しかし、だからといって、長岡の「大器——天才」は、いわゆる「学校秀才」を指してはいない。むしろ、詰めこみ教育による「学校秀才」に、彼は疑問を投げかけている。 「よく小学校において級長などをやっている子供にとかくありがちであるが、何もかもよくやる。しかしそれは将来までずっと進んでそうであるかどうか。あることについては非常に堪能《たんのう》で、あることについてはえらく悪い、というような人に偉い天才のあることがある。天才の生じた時に父兄がもしあやまって、これは小学校で成績が悪いからといって、何か強要して、その本能に適さない学問をするということがしばしばあることであります(中略)。  今日のごとき状態では少し伸びようとすれば、生垣《いけがき》を伐《き》るように挾《つ》んでしまう。なるべく同じように平等になるようにという教育の仕方を改める必要はなかろうか。そういう欠陥がひいては偉人を出さしめないというところに落着くのではないか……」  これは一九三九年(昭和一四)、七十四歳の長岡が、科学振興調査会において発言したことばである。  このときから数えると、今日ではすでに五〇年近い歳月が過ぎてはいる。しかしながら、わが国の小学校から大学に至る教育環境は、長岡の指摘の時代に比べてみても、むしろ悪化していると、いわねばなるまい。長岡の指摘は五〇年後の今日なお、その説得力を失ってはいない。 「教授の黜陟《ちゆつちよく》」  一九一八年(大正七)という年、長岡は五十三歳で「大学制度会議」のメンバーであった。『長岡半太郎伝』の執筆者の一人、板倉聖宣氏によると、当時、長岡は「大正デモクラシーの波にのって、帝国大学の民間移管を内容とするような大学組織論の構想をたてていた」という。  そのような構想の一端として、彼は、この「教授の黜陟《ちゆつちよく》」なるメモを残しているのである。その中で長岡は、現在いうところの年功序列を「梯子《はしご》制度」と表現する。そして、 「今日、教授たるの困難。何れも好箇《ママ》の人物を得難し。……殊《こと》に梯子制度は良教授を得るに益《ますます》困難を来《きた》さしむ。外国にありては、此の如き梯子制度はなきものと考う。此弊《このへい》の一掃せざる間は、大学の萎靡《いび》振わざるは当然である」  彼は、学者は何よりも実績主義でなければならぬといいたかったのである。このメモに先立って、六年前に書かれた例の『巡覧記』の中でも、次のように、ドイツの大学事情を伝えている。  日本ではちょっと理解しにくいことであろうが、と断わった上で、 「ドイツの大学は良教授を得ねば学生が落着かぬから、競うて研究に名ある人を聘《へい》することになっている。教授も亦《また》盛んに研究する。これでドイツは学問の国たる実を失わないのであるが……(後略)」と。  すでにものべたように、この『巡覧記』が書かれる直前まで、長岡は東北大学に移るつもりになっていた。彼が東北大学の創立準備委員になる年、すなわち、一九〇九年には、彼はすでに四十四歳である。東大教授のポストについて、すでに一三年目だ。学問の清新な発展のためには、彼自身、新設の大学へ身を移すことがタメになると考えていたのでもあろう。  ところが、約半年にわたるヨーロッパ視察旅行から帰国して、いざ開学準備にとりかかろうとした矢先、濱尾新《あらた》東大総長に呼びつけられる。そして「腰を落ちつけて、東大に留まれ」と、仙台行きの「不心得を懇々談じ込まれた」のである。『巡覧記』の原稿は、そのような状況の中で書かれている。 「ドイツの大学では、競うて研究に名ある人を聘《へい》することになっている。……これでドイツは、学問の国たる実を失わないのである」  ——長岡はこのことばを、文部官僚濱尾新(東大総長)に向かって語りかけていたのかもしれない。  官僚として、梯子制度を昇りつめ、金モールに輝くことが、学者としての栄達だと、長岡は考えていなかった。したがって、「教授の黜陟《ちゆつちよく》」のメモは、こう続く。 「……今日の如く大学教授は官吏であって、矢張り金モールを着ねばならぬ情況にあれば、是等の累進的方法は実行せられぬ《ママ》であらふ。是れ学界の趨進 《ママ》面白からざる次第であれば、大学教授の官吏と同じうせらるゝは、場合によりては、学問の趨勢に反戻《はんぼう》するの嫌《きらい》なき能《あた》わず」  この文中、「是等の累進的方法は実行せられぬ《ママ》であらふ」というくだりは、前後の文脈から推して、「是等の累進的方法は実行せられるであらふ」の書き間違いだと私は思う。  つまり長岡は、こういいたかったのである。“大学の教授が今のように官吏であって、官僚の年功序列体制の中に組みこまれている以上、どうしたって官僚式に梯子を一段一段、年功とともに累進してゆくことは甘受せねばならない。しかし、このようなやり方では、学問の発展にはつながらないよ”——と。  であるからには、思い切って、帝国大学を民間に移管することを考えてみたらどうか。「大学制度改革とあらば、是非諸君の御一考を煩《わずらわ》し度い……。予の意見は官吏たることを止むるにあり。金モールより遠ざかるにあり」  参考までに、つけ加えるならば、彼は晩年「研究の自立」という講演もしている(一九三六・東大農学部紫友会)。  その中で彼は、理想の研究者像を、経済的にも「自立」すべきものとして、語っている。  できることならば、まず金をもうけて、自立せよ、そうすれば研究の自由は、おのずから確保できる——とも。 弟子相伝はやめよ  年功序列、終身雇用に対する長岡の批判は、当然のこととして、学問研究における同門主義の悪弊《あくへい》、弟子相伝主義の悪弊の指摘へとつながっていく。  一九三六年(昭和一一)、彼が七十一歳のとき、東北帝大は創立二五周年を迎える(このときには、彼は、すでに大阪大学総長を終えている)。この記念式典に招かれて、かつての創立委員の一人として長岡は講演する。講演の主題は、『創立二五年を祝す』というものである。が、その副題は「退職教授の後継者選定は如何にすべきか」となっていた。それは、あとあとまで「爆弾演説」と呼ばれる内容であった。  自分は野人であるから、ほかの来賓諸兄のごとく、格式にはまった祝辞は申しあげられない——と冒頭に断わった上で、東北大学の今後の隆盛を願うが故に、「諸君の猛省を促す次第」と、長岡は語り始める。  東北大学も二五年を過ぎたのであるから、これからは教授の定年や死亡が出てくるであろう。「其後継者は誰れにするかが問題である」——。 「子々孫々相伝うるは家系を重んずる上に已《や》み難い……之《これ》に倣《なら》って教授は其弟子に椅子を譲るが合理的であろうか、問題である。漢学者の如き、代々其職業を改めず、其講釈を新にすることなき場合には、理窟もあろうが現今の如く、学問が駸《しん》々として日に新たなる時代においては考慮せねばならぬ」  徳川幕府の御用学者でも、父子相伝、もしくは弟子相伝をくり返すうちには「遂に萎靡《いび》奮《ふる》はなくなった。此伝統的惰性は、今日に至り少しく型を更《か》へて、弟子相伝の悪習慣を馴致《じゆんち》」しつつある。「これは実に寒心に価する学界の趨勢である」と。  これを改めるためには、本来ならば思い切って、海外から大物教授を招聘《へい》するのがよい。しかし、今すぐ、そうするわけにいかぬというのであれば、当分の間は、国内で優秀な学者を、招聘しあうということで、満足せざるをえないかもしれない。しかるに、現状はどうか——。 「あらゆる学科に対して、最善の学者達が、只一大学に集る確率は少く、寧《むし》ろ諸大学に散在するというのが至当であろう」  にもかかわらず、 「現今東大と京大とに於ては、大部分、其校出身の人を以て、教授の席を埋めている。之は学風が異る点から此の如くなったか、それとも弟子相伝の風が、遂に此観を呈するに至ったか、甚だ了解に苦しむのである」 「弟子相伝は其学風を承継する。言わば学問の同一系統を襲うものである。或る意味に解釈すれば、良好なる結果を生ずるかも判らぬ。しかし、科学・工学の如きは、其変遷迅速《へんせんじんそく》にして、晨《あした》に夕《ゆうべ》を度《はか》らず、走馬灯も只《ただ》ならざる状勢にある」  それでありながら 「他を顧みずして、只管《ひたすら》弟子中に候補者を求むるは偏狭の譏《そしり》を免れ難い」 「現今東大と京大とのブロックは、明治初年の薩閥や長閥のような事態を誘致して、禍根を包蔵する憂いが濃厚になる。東北大学はよろしく此状勢を洞観《とうかん》して、決して国民の迷惑にならぬようにすべしと考えるのである」  長岡が提示した、このような一連の学界批判は、第二次大戦のあと、海外から日本に向けられた批判とも、ほとんど軌を一《いつ》にしたものであった。  湯浅光朝氏(科学史家・元神戸大学教授)が、敗戦後、訪日した調査団、使節団の大学への批判をとりまとめてくれている。たとえば、一九四七年に訪日したアメリカからの自然科学使節団(アダムス委員長=イリノイ大学化学部長=以下五人)の報告書によると、 「ドイツの伝統にならって、日本の総合大学には高度の専門化が存している。……大学卒業生(注=大学院生のこと)は単一の教授につけられ、その仕事の全部は、この一人の人物の指導下における研究と半独立の学習ということになる。  教授に対しては、家族的忠実さが強く捧げられる。教授とその学生はひとつの「家族型」の単位を構成し、これが多分、多数の学者の思考並びに活動に対して不当な影響を及ぼしている。このことは引いて、極めて狭い分野に活動を集中させる結果となり、また訓育と興味との幅を決定的に欠かしめることとなる。  日本における高等教育の顕著な特徴は、大学間に教授者の交換を行うことが稀有であるということである。これにより、明らかに教授者も学生も、ともに損失を蒙っている。  恐らく公共総合大学における『講座』制度の普及が、大学相互間及び大学内部における連絡の不完全に対する重要な要因であろう」——と。  これらの調査団、使節団は占領軍の側から送りこまれたものであった。だから、彼らの報告は単なる勧告だけに留まっていたのではない。やがて、日本の教育制度の改革、大学制度の改革となって、彼らの批判は現実化された。  しかし、教育制度の改革、大学制度の改革によって、日本の科学界が備えていた欠陥が完全に払拭《ふつしよく》できたかといえば、残念ながら、答えは否であろう。  日本の科学界のもっている欠陥は、単に、かつての帝国大学や、単に講座制の弊害からのみ、よって来たったものではない。むしろ、広く日本の社会全体の、タテ型社会の基本的欠陥というべきものであった。  異花受精への拒絶反応、同族繁殖による閉鎖主義——これらは、今日もなお改革すべき課題として残されている。  慶応元年に生まれて、昭和二五年に死んだ物理学者・長岡半太郎もまた、そのことを指摘し続けたのであった。  補記 参考文献の紹介を兼ねて——。  物理学者長岡半太郎に関する伝記・評伝は、明治の科学者に関する、この類《たぐい》の書物の中では、もっともよく整っている。  板倉聖宣・木村東作・八木江里の三人の共同執筆による『長岡半太郎』(朝日新聞社、一九七三年刊)と、これを基礎資料とした板倉聖宣著『長岡半太郎』(朝日評伝選、一九七六年刊)——この二冊が、それである。  これにひきかえ、このシリーズでとり扱っている長岡以外の、四人の科学者については、その伝記を入手するのが、きわめて困難であろう。もちろん、一応の伝記は存在している。本人の死後数年という時期に、弟子や縁者や関係者によって、一応の伝記にはまとめられている。しかし、その大半は、非売品であって、関係者の間に流布したにとどまっている。その中のあるものは第二次大戦後に、復刻されたり、簡略本になったりもしているが、ほぼ事情は似通っている。  あえていえば、今日、それらの貴重な歴史的事実は、闇の中に埋没《まいぼつ》されかかっている。冒頭の序章でも書いたように、こうした事実に、わずかなりとも、光をあててみたい、というのが私がこの評伝に手をつけた動機であった。  ただ幸いにも、長岡半太郎に関しては、すでにきわめて充実した伝記が存在している。しかも、その発行も比較的最近のものなので、入手しやすいはずである。とくに、朝日評伝選におさめられている板倉聖宣著『長岡半太郎』はコンパクトな一冊である。現在、市販本が売り切れになっていたとしても、ちょっとした図書館でなら、容易に手にとることができるであろう。  この章で私が紹介している長岡半太郎伝は、ごく短い、きわめて圧縮した長岡像でしかない。しかも、それは板倉氏らの労作の、要約でしかない。したがって、よりくわしく長岡の全容を知るためには、直接、板倉氏らの著作に当たっていただきたい。  この本で扱う五人には含めていないが、明治の代表的科学者として、野口英世の存在も軽視できない。この野口に関する伝記も、整ったものがすでに現存する。それ故に、このシリーズでは割愛した。野口英世について、最近発行のものとしては、これも朝日評伝選に中山茂著のものがある。日本人と科学技術の創造性について、考えさせられる一書として、おすすめしたい。  他方、長岡半太郎や野口英世以外の、日本の、近代の科学者に関しても、せめて、この二人程度に整った伝記が、今日の日本の社会には必要だと思う。  夏目漱石とか森鴎外や内村鑑三などの明治の近代文学、近代思想の創設者に関しては、実に精密な研究がなされている。それにひきかえ明治以降の、近代科学の創設者については、その伝記や評伝が、あまりにも貧弱なのである。  それも、彼ら、科学者の業績や生涯の中身が貧弱なせいではない。すでに、北里柴三郎や高峰譲吉に見てきたように、彼らの生涯は、ひとつひとつのドラマとしても変化とロマンに富んでいる。  これは、このあとでとりあげる池田菊苗にも、鈴木梅太郎にも、同様にみられるものなのである。 〔注〕『科学と社会』板倉聖宣著、季節社、一九七一年刊。 第四章 池田菊苗 「うまい味」とは何か? グルタミン酸塩の“発見” 見よ、聞けよ、かつ又言えよ アリーゼ・ケルべルの謎 世界全体で三〇〇〇億円規模の化学工業 「味の素」とか「旭味《あさひあじ》」というような商品名のついた化学調味料が、日本の家庭であれば、たいていどこかにあるはずだ。現在、この化学調味料は全世界に普及している。これは、明治末期に日本人が発明したものである。  世界全体で生産されている化学調味料は、一九八六年あたりの統計では、年間約四〇万トン。金額でいうと、約三〇〇〇億円の規模になる。日本で基礎研究がなされて、日本で工業化を実現して、そして世界的な規模に成長した——そんな化学工業として、今日、もっともよく知られているのが、この化学調味料である。グルタミン酸塩(ナトリウム)が、主たる成分だ。世界全体の生産量のうち、約半分は、日本の企業、及び日系の企業で押さえている。  この基礎を築いたのが池田菊苗《きくなえ》(一八六四〜一九三六)であった。  視覚に訴える「染料」を天然物から人工の合成物に転換する途《みち》を拓《ひら》いたのは、一九世紀後半の、ドイツの化学者たちである。西洋アカネ草からとるアリザニン(紅色)や、藍草からの、インディゴ(藍色)の化学構造を、彼らはつきとめてくれた。そして、それらを人工的に合成する技術を、つぎつぎに確立していった。  一八七〇年(明治三)前後のころである。  他方、味覚に関する分野では、甘味を人工合成する試みが、そのころ「サッカリン」となって実現している。塩からい味(鹹《かん》味)の本体が、塩化ナトリウムであることは、もっと早くから知られていた。  化学の世界での、こうした状況を踏まえながら、それならば、いったい「うま味」の本体とは、何か——と、池田菊苗は、考えていたのである。  彼の結論が、特許出願という形になって、まとまるのは、一九〇八年(明治四一)。これが今日、世界中に広まっている化学調味料工業の、起源である。  池田菊苗はそのとき四十四歳。東京帝国大学理科大学(理学部)の教授であった。  特許が認可になった翌一九〇九年、彼は自分の発想を次のように語っている。 「今日、生理学者、心理学者によって、一般に認められて居るのは、酸《さん》、甘《かん》、鹹《かん》、苦《く》の四味に過ぎませぬ。……しかしながら自分は此の外に少くとも一種の区別し得べき味があると信じて居《お》りました。それは魚類、肉類等に於て、吾人が『うまい』と感ずる一種の味でありまして、鰹節《かつおぶし》、昆布などの煮出汁《にだしじる》に於て、其味が最も明瞭に感ぜらるるのであります(中略)。  ……此の『うま味』を喚起《かんき》する物質は、果して如何なる化合物であるか……」〔注1〕 コンブを煮つめての実験  そう考えた池田は、身近な台所にある材料、コンブを使って実験を始める。それが一九〇七年(明治四〇)の春ごろであった。大学の雇員と、のちには“自分の金”で雇い入れた助手に手伝わせながら、コンブの浸出液を煮つめて行った。煮つめては、結晶させる——という作業を何回か繰り返す。そうやってマンニット〔注2〕、食塩、塩化カリウムなどを除去していく。無水アルコールを加えたり、硝酸塩の飽和溶液を加えたり、鉛塩を加えて沈澱させたり、——こうした一連の化学処理で母液を濃縮して、最終的なエッセンスを結晶として、抽出した。その結晶を分析してみると、イオン化したグルタミン酸であった。 「うま味」の本体とは、これであったのである。約三〇グラムのエッセンスを抽出するのに、約三八キログラムのコンブが原料として使われたという。  もっとも、このイオン化した状態のグルタミン酸では、商品としては不適当だった。そこでこれをグルタミン酸ナトリウムにかえる。これが、のちに、いわゆる「味《あじ》の素《もと》」(商品名)となる。  池田菊苗みずから認めていることだが、この研究の勝負は「味の正体をはっきりさせるまで——」であった。それがわかってしまえば、いってみれば、“ナンダ、アレカ——”という話だ。  グルタミン酸という化学物質そのものは、すでに一〇年も以前に発見されていた。グルタミン酸の結晶には、光学的性質(旋《せん》光性)が異なるL型とD型という二つの異性体がある。池田が「うま味」の本体として抽出したのはこの二種類のうちのL型のグルタミン酸イオンであった。グルタミン酸に、このようなL型とD型とがあることも、一八九七年には発見されていた。しかも、D型は無味で、L型には“特有な味”があるところまでも、すでに、つきとめられていた。 新しい「概念《コンセプト》」の提出、その「実体」の解明  ただし、化学を専攻している学者の間には、「うま味」というような、味覚の概念《コンセプト》は、未だ認められていなかった。あとになって、同時代の化学者である鈴木梅太郎も、苦笑した口調で語っている。 「池田さんの仕事は(本来なら)自分の方でやるべき性質のものであるが、洒落《しやれ》ではないが、うまく(して)やられた……」と。  つまり、池田が見出した化学物質は、けっして未知のものではなかったのである。では、池田は“何を”新しく見出したのか——。  それは彼自身が、まさしく表現しているように「うま味」というものの「実体」であった。より厳密にいえば、「うま味」という新しい味覚概念を提出し、その「実体」を明らかにしたのである。  池田菊苗以前の生理学者や化学者たちは、味覚には酸(すっぱい)味と、甘い味と、鹹《から》い(塩からい)味と、苦《にが》い味と——この四つの味しかないと考えていたのだった。  ひるがえって、化学者以外の、一般の人々は、というと、食べものに、うまいものと、まずいものがあることは、とっくの昔から承知していた。この“うまい味”にもっとも敏感なのは、たぶん、料理の愛好家、専門家たちであったろう。しかし、彼らは、その“うまい味”を、化学物質として、つきとめようとは、思っていなかった。  池田菊苗は、この二つの“盲点”を、うまく、つきとめたのである。  まさに「ユニークな発想」——と評さねばならない。このユニークな発想が、万事を決したのであった。  こうやってつきとめられたのが、まったく未知の化学物質であったり、あるいは、まったく新しい化学構造をもつものであれば、池田菊苗の発見は学問的にも、もっと大きな意味をもったであろう。  しかし、残念ながら「うま味」の根源は、そんなにものすごいものではなかったのである。  池田菊苗も、それは認めていた。「学問の上より見れば、余の発明は頗《すこぶ》る簡単な事柄なりしなり」と。  池田の特許出願は、一九〇八年(明治四一)の四月二四日。特許の内容は「グルタミン酸塩を主成分とせる調味料の製造法」というものであった。この内容が、前述のようなものであっただけに、あとあとまで、特許係争のタネとなる。池田の特許に異議を申し立てた側からすれば、“グルタミン酸は、公知のものではないか、その製造法も、したがって公知のものではないか”——というわけである。「うま味」というような「概念《コンセプト》」や、「調味料」というような「用途」でもって、特許権を認めることはできないはずだ、というのが、反対者たちの主張であった。  が、そのような異議申立ては、あとになってからの話である。池田の出願は、まずは、すんなりと、一九〇八年七月に認可されている。 新進実業家、鈴木三郎助が工業化に  池田の特許の工業化をひき受けたのが鈴木三郎助(一八六七〜一九三一)だ。今日の「味の素株式会社」の創業者である。  鈴木三郎助は、一九〇八年二月に、初めて池田菊苗を訪ねている。池田の特許の認可をまって、この年の九月、工業化をひき受ける契約を池田と交わす。  当時、鈴木三郎助はヨード生産によって擡頭しつつあった新進の実業家であった。彼と、その一家は、明治二〇年代から、神奈川県葉山《はやま》でヨード生産を営んでいる。そのころの葉山は、まだ半農半漁の、ごく平凡な海辺の村であった。  鈴木三郎助の一家は、そんな海辺で、海藻のカジメを採集し、これを焼いたり、溶かしたり、熱したりして、結晶ヨードをつくる商売をやっていた。ヨードはヨードチンキのような薬品の原料である。彼の店も「鈴木製薬所」という名まえであった。それは、きわめて手工業的で、少なからず原始的な化学工業であった。  しかし、そんな「鈴木製薬所」が、日露戦争のあと、明治三〇年代の末になると、関東の業界でも一、二を争う企業にのし上がっていく。鈴木三郎助は、中央の実業界でも、ようやく名を知られかかった実業家となる。(鈴木は「味の素」を成功させてのち、次々に事業に成功、水力発電をおこし、電気化学の会社をおこして、大正時代には、財界の大立者となっていく)。  ヨード生産に使うカジメというのは、コンブとも縁の近い海藻だ。池田菊苗の研究を、鈴木はどこからか聞きこんで、東大を訪ねたのである。これが一九〇八年(明治四一)の二月のことである。  このときすでに、池田の掌中には、グルタミン酸がとり出されていた。  池田のほうは、そもそも、この研究に着手するはじめから、工業化することを目論んでいた。だから研究に目鼻のつきかかる、このころには、池田自身としても、あちこちに声をかけて企業化の打診を始めている。三井物産でも、これを検討してかなり良い条件を出した、らしい。そんな時期に、気鋭で、野性味に富んだ実業家、鈴木三郎助が現われたわけである。鈴木は四十一歳、池田は四十三歳であった。 特許は共有にしてスタート  池田の特許出願が、この年の四月、そして認可されたのは七月である。このあと、池田菊苗は「小麦粉を原料とすれば、グルタミン酸塩は、安価に大量生産できる」と提案し、鈴木三郎助に重ねて、正式に工業化を要請する。 「調味料」などということばすら、世間にはまだ、ない当時である。もちろん、世界にもまだ例がない。しかし、モノは確かであった。かねて、その年の二月、鈴木が、池田の許を初めて訪ねた際に、鈴木の舌は、グルタミン酸の「うま味」をまちがいなく確かめている。  これが、台所での「必需品」になりそうな商品であることは見当がついた。ただし、鈴木三郎助自身に、そこまで、やり抜ける力があるかどうか——。鈴木は池田に申し出ている。「やるからには、特許を共有にしてくれ」と。“それでけっこう”という返事で、両者は、九月に契約を結ぶ。  池田菊苗と鈴木三郎助との出会いは、明治以降の日本の産業技術史では、まれにみる幸せなものであった。 工業化に伴うトラブル  グルタミン酸そのものを、実験室規模で合成するのは、簡単なことだ。  コンブの煮出汁から抽出するなどといっためんどうな手順を踏む必要はない。たとえば、小麦粉とか大豆などの蛋白質を原料としながら、酸で分解したり、加熱したりする化学反応によって、グルタミン酸は確実に合成できる。  実際、鈴木三郎助が逗子工場で始めた製造法は、このやり方であった。  ただ、実験室規模では問題のなかった、この化学合成が、工場規模での生産になると、やがてつぎつぎとトラブルをひき起こしたのである。  化学調味料、「味の素」の工業化の歴史をあとから振り返ってみると、その直面した困難の九五パーセントまでは、化学工業としての技術的トラブルである。そんなトラブルを解決するために、池田は、のちのちまでも力を貸さねばならなかった。  工場生産を進めるに当たって、まず直面した難題は、化学反応をさせるための“容れもの”であった。  小麦粉の蛋白質を濃塩酸で分解する。それも加熱しながらやる——この化学反応をやるための、大きな容器の材質を何にするか。磁器のカメ(甕)であろうと、ホーローで厚く内張りした鉄の容器であろうと、強い塩酸を入れて、熱を加えると、たちまちにヒビが入る。まもなく壊《こわ》れてしまう。池田菊苗の研究室の段階では、ガラスの容器が使えたのである。ガラスは酸にも、熱にも耐えられる。ところが工場規模になって、せめてカメくらいの大きさの容れものがほしい、となるともはやガラスではつくれなかった。  このときは結局、「道明寺ガメ」という粘土性のカメ(直径約一メートル、深さ約六〇センチメートル。愛知県常滑町製)を見つけ出した。これに針金を巻きつけたり、しっくいを塗りつけたのである。もちろん、これにしても洩《も》れたり、壊れたりはした。だが、どのみち洩れたり、壊れたりするのなら、いっそのこと、値段も安い「道明寺ガメ」で——という選択に落ちついたのだ。もっとも、この「道明寺ガメ」の選択は、池田の助言ではなく、現場の人たちの知恵であったようである。  しかし、この“容れもの”の問題は、その後《ご》も跡《あと》を絶ってはいない。「味の素」が売れ始めるとともに、量産規模が大きくなる。製造装置は大型化し、やがて連続生産が求められる。カメで一杯ずつつくるというバッチ生産では、早晩、間にあわなくなった。このような製造工程の進展に伴って、壊れない“容れもの”の問題がずっとつきまとった。  これは最終的には、「乾塗《かんと》」(「味の素」社内での呼び名)と呼ばれた一種の内面塗装によって決着がつけられている。金属性の“容れもの”の内面に、ある種の耐酸性の粉末材料を焼きつけてライニング(内張り)する手法であった。一九三〇年前後に、池田が解決のいと口をつけたものだ。  その当時、彼は東大教授をやめてドイツ(現在の東ドイツ)のライプチヒに住みついていた。そこで、第一次大戦中の、ドイツ軍の毒ガス(塩素ガス)製造装置の情報を知って、このヒントを得たのである。  このほか、「甜菜《てんさい》糖の廃液からグルタミン酸を採取する方法」なども、彼の晩年のライプチヒでの仕事であった。 「純正化学」は無用の長物か  本来、池田は理論化学(当時のことばでいうと「純正化学」)の研究者である。  ただし、現代とは違って、彼の時代の純正化学というのは、現実社会には、まったく縁のない研究とみなされていた。だから、大学の理学部の化学の卒業生は、その行く先も、いちじるしく限られていた。大学に残って研究者になるか、(旧制)高等学校か高等工業学校の教師になるか——。  産業界からは、ほとんどかえりみられることのない学問であった。もっぱら海外からの技術導入に頼っていた明治の日本の産業界にとって、化学の基礎研究などは、「無用の長物」に近かったのであろう。  池田はいう。 「余は機会あらば自《みず》から応用方面に於て成績を挙げ、純正化学者が工業上より見て無用の長物に非《あら》ざることを例示せんと窃《ひそか》に企図し居たり」と。  彼のそのような「企図」の背後には、ドイツ留学中の師、W・オストワルド教授(ライプチヒ大学)〔注3〕の影響が大きい。オストワルドは、触媒化学に関する基礎理論で、一九〇九年にノーベル化学賞を受けている。だが、理論だけではなく硝酸の製造法という応用面でも、オストワルドは、当時この分野での大家であった。だから、池田菊苗の胸の中では、理論化学者も応用面で業績をあげてしかるべきだという想いは強かったであろう。  そんな池田の念願が、グルタミン酸ナトリウム(「味の素」)の工業化ということで、みごとに結実したのである。 少年期の転変、幕末に生まれて  池田菊苗は、一八六四年(元治元年)、京都で生まれている。幕末、京都では蛤御門《はまぐりごもん》の戦いがあって、長州勢が敗退する年にあたる。父、山懸春苗《はるなえ》は本来、加賀藩士であった。それが何かの事情で薩摩藩の京都留守居役、池田家の養子となる。母は宮家《みやけ》の家臣の娘で、菊苗二歳のときに早く死別している。  一八六八年、明治新政を迎えると、父は滋賀県庁の高級吏員となり、琵琶湖に汽船会社をつくったり、牧場を経営したりもする。  一八七三年(明治六)、九歳のときに父の知人を頼って、菊苗は東京に遊学し、私塾で英語を学ぶ。ところが、この年、征韓論が敗れて、西郷隆盛は下野。旧薩摩藩士であった父、春苗も、これに同調して官職を辞去する。その後の一家は、形《かた》の如き、武家の商法。徐々に没落の一途をたどる。東京遊学中の菊苗も、家計が許さなくなって、二年で京都へ呼び戻される。  それから今度は漢学塾へ。かたわらイギリスから来た婦人宣教師について、英語を学んだり、通訳を勤めたり。一年ばかりではあるが京都府立第一中学にも在学している。  その後、一家は大阪へ移住。そこで自宅の近くに住んでいた村橋次郎(当時、造幣局技師で、大阪衛生試験所長)に教えを乞う。十六歳の少年、菊苗はこの村橋の影響で“化学のとりこ”になってしまう。村橋の蔵書を借りて、ただ読むだけでは満足できず、天秤《てんびん》を自分でつくってみる。銅の原子量も測ってみる。  これが一八八〇年(明治一三)ごろのことであった。  翌一八八一年、十七歳で二度目の上京。これは親に断わりのない家出であった。一家が、たまたま花見に出かけた留守に、家を抜け出し自分のふとんを売って、上京の旅費をつくったといわれている。 家出体験と自活  話が若干、それるが、当時、明治初期の科学者には、進学のために家出を経験した者が少なくない。北里柴三郎も家出同然であった。第六章でのべる、鈴木梅太郎(ビタミンの発見者)——これは完全な家出である。遠州・御前崎での百姓の次男としての生活に満足しきれず、十四歳で出奔《しゆつぼん》したのである。  この本では、余儀なく割愛した本多光太郎(物理学者、磁石鋼など金属学の大家)も、そうだ。十六歳のときにいったん家出をして途中で連れ戻されている。  東京に出て進学するという、ただそれだけのことではある。しかし、当時にあって、人生のこの階段を一段、登ることは並みたいていのことではない。強い自己貫徹の意志が必要であった。こうした経験は、そのあとの世代の科学者には、しだいに見られなくなるものであった。  科学者としての業績をひき比べてみたときに、明治の第一世代の人たちは、そのあとの世代の人たちよりも、ひときわ輝いて映《うつ》る。これはそのような家出体験とも、無関係ではあるまい——と私は思う。  金のなかった池田菊苗は、上京すると、最初、札幌農学校の試験を受けて合格する。そこは全額、官費でまかなってくれる学校であった。内村鑑三や新渡戸《にとべ》稲造らよりは四期あとの世代に当たる。しかし、池田の合格した年には、何かの事情で三人しか“採用”されない。仕方なく彼は札幌行きを断念する。  翌年、大学予備門に合格する。彼はここでも給費生になる。校長杉浦重剛(漢学者)の計らいであった。一八八五年(明治一八)、東大理学部化学科に進学。すでに、その前後から、池田は自活して生きている。神田の英語学校で講師をしたり、英文の翻訳を請負ったり。自分一人の生活費をかせいだだけではない。八つ違いの異母弟を、早くから東京の下宿に呼び寄せてその面倒をみる。そのうえ、東京大学に進むころには、大阪から一家があげて上京し、その生活を二十歳を越したばかりの青年、菊苗にすがるようになる。  英文の翻訳の仕事がけっこう、暮しの助けにはなったようだ。休みに一日、三〇枚の訳文を書いて、これが九円ぐらいの収入になったという。心理学の本までも、そのころ下請けをして訳している。専門外のことについても、彼は生涯、きわめて博識だったという。その博識の基礎は、若いころの手当りしだいの翻訳で、培《つちか》われたようだ。 帝国大学はぶかぶかの古ぐつで  彼の大学の時代は、日本全体の思潮が、自由民権から、国家主義へと、右旋回する時代であった。明治維新に伴う改革と混乱の時代——しかし、理想にだけは、けっこう燃えていた時代——それがもう終ろうとしていた。それに替わって、「大日本帝国」という重苦しげな、秩序の時代に移行しつつあった。もっと正確にいえば、この二つの境目の時代であった。  加波山《かばさん》事件、秩父《ちちぶ》事件という自由民権運動の“終曲”が一八八四年(明治一七)だ。池田は、その翌年に東大へ進む。そして一八八六年には、東京大学が改称して「帝国大学」となる。 「帝国大学」に改められると、学生たちは、皮ぐつをはいて登校せねばならなくなった。池田菊苗は、それまでげたでもはいていたのであろう。ともあれ、彼には急に、皮ぐつを新調する金がない。足の大きな父親の古ぐつならばあった。身長が一五五センチメートルくらいで、小柄で足も小さかった菊苗は、父親のぶかぶかの古ぐつをはいて、「帝国大学」に通ったそうである。  彼が「帝国大学」を卒業する一八八九年(明治二二)には、「大日本帝国憲法」が公布される。翌年、最初の「帝国議会」が開設。同じ年に教育勅語が公布された。 ドイツ留学へ  池田は、化学の分野でも「物理化学」に、特に興味を抱く。 「物理化学」というのは、今日でいえば熱力学——エネルギー論といった領域である。無機化学と有機化学との分化が進むにつれて、両者を統一的な立場から研究しようとする理論的研究が、新しく興《おこ》りつつあった。  ドイツでは、W・オストワルドらが学術誌、Zeitschrift f殲 physikalische Chemieを、一八八七年に創刊して、世界の注目を集めていた。物理学で用いられている実験方法や理論を、化学の領域に導入しようとするところから「物理化学」と呼ばれたのである。  池田の卒業研究の指導教授は、桜井錠二〔注4〕。やがて、三年後に池田は、この桜井の妻の妹、貞子と結婚することになる。  一八八九年(明治二二)、大学を卒業すると、一年ばかり大学院に残って、そのあと高等師範学校(のちの東京高師。現在の筑波大学)の教授になる。一八九六年(明治二九)には、帝国大学理科大学へ戻って助教授に任じられる。三十二歳であった。  大学を出てからドイツへ留学に出かけるまでの一〇年間に、彼は合計八編の論文を発表している。化学反応の速度に関するもの、浸透圧《しんとうあつ》に関するものなどだ。英文が二編、独文が一編、あとは日本語のものである。ちなみに、池田菊苗のころの東大の化学の講義は、もっぱら英語で行なわれていた。だから、彼のドイツ語は、ほとんど独学によるものであった。  教授候補として、ヨーロッパに留学するのが一八九九年(明治三二)の七月で、「物理化学」の第一人者W・オストワルド教授(ライプチヒ大学)のもとに赴《おもむ》くのである。池田は三十五歳、妻、貞子と、五歳を筆頭にした一男二女をあとに残して——。 オストワルドの許《もと》で  池田菊苗が、「物理化学」の創始者、W・オストワルドの許で学ぶのは、一八九九年の秋から一九〇一年の五月にかけての、約一年八ヵ月である。当時、オストワルドはライプチヒ大学の教授であった。ライプチヒは、ベルリンから南東、約一五〇キロメートルにある街。  池田菊苗のライプチヒでの滞在は、日本でいえば明治三二年から三四年に当たる。日清戦争と日露戦争の狭間《はざま》の時代で、幕末に結んだ外交上の不平等条約が、ようやく改正でき、国内における治外法権が撤廃されている。国際的にも、ようやく、一人前の国家として承認されかかったころであった。  そのころ、すなわち一九〇〇年、長岡半太郎は、万国物理学会(パリ)に招かれて、「磁気歪《ひずみ》」に関する総括講演をやっている。ニューヨークで孤軍奮闘していた高峰譲吉が、アドレナリンを発見するのも、ちょうどこの年である。東京では北里柴三郎の、私立伝染病研究所が軌道に乗り、彼の指導のままに、内務省立に移管される。これらのことについてはすでに触れた。明治開明思想のリーダー、福澤諭吉の死が一九〇一年であった。  東大助教授、池田菊苗のヨーロッパ留学は、こうした時代である。  オストワルドの許で、池田は何の研究をしたのか——。  まずは、日本ですでにやってきた研究を、ドイツ語の論文として、発表することであった。オストワルドの主宰する学術誌Zeitschrift f殲 Physikalische Chemieに池田の二編の論文が載《の》る。  他方、オストワルドの助手ブレデッヒ(G. Bredig)の指導で、膠《にかわ》状白金の触媒反応の実験を手がけている。当時、触媒の研究は化学の領域での最前線というべきものであった。  こうした仕事をこなしながら、彼は師、オストワルドの化学の理論と、応用とにわたるさん然たる業績を、目のあたりにするのである。  オストワルドは理論化学の大家であった。それと同時に応用面でも輝かしい実績のある化学者であった。  彼はのちに一九〇九年には、ノーベル化学賞を受けることになる。これは「希釈律法則の発見、化学平衡の研究」という理論の仕事に関するものであった。他方、応用面では、硝酸製造に関して「オストワルド法」という化学史に残る業績を出している。  そのオストワルドの研究室に身を置くことによって、理論と応用とが密接につながり得ることを、池田は強く肌で感じとっている。  だが、池田菊苗がオストワルドから吸収したものは、これだけではなかった。 エネルギー一元論  というのは、オストワルドが単に化学の領域だけに留まる学者ではなかったからである。彼は、晩年には科学哲学の領域においても、二十世紀初頭の一時期、非常な注目を浴びた存在であった。  オストワルドの提唱した哲学は、「エネルギー一元論」とでも呼ぶべき見解である。  十九世紀末から二十世紀初頭にかけての時代、物質の根源をつくるものが「原子」であるとする自然観は、崩壊しかかっていた。古代ギリシア以来、「原子」が根源物質だと、いわれ続けてきたのではあるが、原子そのものの存在が未だ確認されてはいなかった。それが、果たして確認できるものか否かも、十九世紀末にはさだかではなかった。だから「原子」とは、根源物質などではなく、単なる「仮構の存在」——「仮説」に過ぎぬとも考えられたのである。  オストワルドが、その方の旗頭《はたがしら》であった。彼は森羅万象《しんらばんしよう》の根源は「エネルギーのみ」だと提唱する。一九〇八年に公刊した著書『Die Energie』〔注5〕がその代表作だが、彼の思想はすでに一八八五年には明らかにされていた。  オストワルドは、こう主張する。 「エネルギーのみ」を「根源概念」とすることによって、自然界のすべての現象はもとより、人間の社会にみられる社会現象も、人間の生命や精神にわたる現象までも、はじめて統一的に理解しうる——と。 「エネルギーのみ」という「一元論」を強調するあまり、彼は原子や分子のように、実在が確認されていないものは排除すべきだとした。  この主張は、当然に、「原子—分子」論者からは、猛烈に批難された。「原子」の立場にたつボルツマン(L. Boltzmann, 1838〜1902)と、オストワルドは、一八九五年、すでに、激しい公開論争を交わしている。  オストワルドの「エネルギー一元論」は、やがて、結局は、敗れるのである。原子—分子の存在は、単なる仮説や概念《コンセプト》に留まるものではなかった。その実在が間もなく実験で確認されるからだ。が、それはもう少しあとになってからの話であった。だから池田菊苗のライプチヒ滞在中(一八九九〜一九〇一)、まだ「エネルギー一元論」は、じゅうぶんな説得力をもっていた。池田は、オストワルドのこうした科学哲学の“壮大な体系”に、感銘を深くする。  そしてこのような、科学哲学の“壮大な体系”の、その見方、考え方が、池田菊苗を媒介としてやがてロンドンにおいて文学者、夏目漱石に、濃密に伝えられるのであった。 ロンドンで、漱石への影響  一九〇一年五月、池田はライプチヒを去って、イギリスのロンドンへ渡る。彼のそこでの滞在は、わずか四ヵ月である。  しかし、池田の、この四ヵ月のロンドン滞在が、今日のわれわれに残した最大の遺産は、夏目漱石への影響といわねばならない。それは漱石文学の、創造の原点に、きわめて近いものであった。池田の影響が漱石の原点そのものであったとはいわない。しかし、漱石が、彼の創造の原点を、固定する上において、池田の影響がきわめて大きかった、とまでは、いわねばならない。  なかんずく、われわれにとって、もっとも重要なことは、二人の出会いがきっかけになって、漱石をして創造とは何か、創造行為の根源にあるものは何か——を明確に悟らしめたことである。これは単に、文学の創造にのみ、関与したことではない。文学にも、芸術にも、自然科学にも共通する、およそ創造活動の全般に共通する根源を、漱石は、掘り当てて、つかみ出してくれたのである。そして、それを明確に表現し、書き遺してくれたのであった。  それがいかなるものであったかは、次の章でくわしく書くことにしたい。  インド洋を回る五〇日の船旅を終えて、池田が帰国するのは、一九〇一年(明治三四)の一〇月。彼は、その月のうちに教授に昇任する。三十七歳である。翌年の暮には理学博士になっている。  一九〇五年(明治三八)、日露戦争の年には、オストワルドの著書を訳して『近世無機化学』として刊行する。この同じ年、夏目漱石は『吾輩は猫である』を書いて、一躍、文名を高めている。  コンブの煮出し汁の研究に、池田がとりかかるのは、一九〇七年(明治四〇)の春ごろだ。もっとも、彼が「うま味」の根源に興味をもち、コンブの煮出し汁を手がけ始めたのは、実は、もっとずっと早くからであった。  明治二〇年代の終りごろ、つまりドイツに留学する以前から、彼はすでにこの仕事を手がけていた。そんな目撃者の証言が残っている〔注6〕。  だから、一九〇七年春ごろに、はじめてとりかかったのではなく、何らかの動機があって、“コンブの煮出し汁”の仕事に、また改めて、とりかかった——というべきであろう。  このころまで、つまり帰国して六年間に菊苗と妻、貞子との間には、新しく一女と二男が生まれている。合計六人の子女の父である。 楽でなかった池田家の内情  池田菊苗一家の財政は、このころ、ずっと窮々としている。そのころの東大教授といえば、現在のそれに比べても、はるかに特権的な恵まれた地位である。学者官僚として、それなりの高い俸給も保障されていた。池田菊苗の場合は、年俸が一六〇〇円前後であった。  にもかかわらず、彼の一家の財政は苦しかった。一九一六年(大正五)ごろまで、つまり、菊苗自身が五十歳台の初めごろまでは、ずっと借金がついて回ったようだ。  もちろん、東大教授としての体面や格式を保っていくためにも、それ相応の出費はあった。たとえば、ごく近辺の大学へ通勤するのにも、人力車を雇う……というような事である。六人もの子どもがいたのであるから、この養育費もばかにはならなかったろう。しかし、それだけではなかった。  彼は自分の妻子以外の、一家眷族《けんぞく》すべてのめんどうもみなければならない立場にあった。  菊苗自身の妹たちの結婚の費用やら、あるいは弟たちの商売の不始末の後片づけ、それらも菊苗の身にふりかかっていた。“身を立て、名を挙げた”明治の出世者にはつきものの苦境であった。  だから、一見、羽ぶりの良さそうな、新進教授ではあったが、彼の台所の内情は、実は、それほど楽ではない。 「此の窮地を脱せんとする願望」——も、「うま味」の根源をつきとめようと考えた「一《ひとつ》の潜在動機たりしことを否む能《あた》わず」と、彼自身は告白している。 「グルタミン酸塩(ナトリウム)を主成分とする調味料……」の特許が受理されたのは、一九〇八年(明治四一)の七月である。 アリーゼ・ケルべルとは?  この前年、一九〇七年の一〇月ごろから、池田の身辺には、一人のドイツ人の女性が出現する。アリーゼ・ケルベル(Alice Koelbel)という。  彼女は、シーメンス東京支社に勤める会計担当者で、少なくとも、その後一一年間は、東京に住みついている。彼女の住居は、日本に来た当初、池田菊苗の住居の隣の番地であり、その後も、本郷の東大の近くにずっとあった。  池田菊苗は、定年を待たずに五十八歳で東大教授を辞職(一九二三年=大正一二)する。そのあとは、ドイツのライプチヒを再訪して、そこに居を構え、晩年の六年余の研究生活を営むのである。  が、このころには、アリーゼ・ケルベルも、ライプチヒに帰っている。池田菊苗は、このライプチヒへ六人の子女のうちの、末の三人を呼び寄せて、ヨーロッパで教育を受けさせる。そんな池田一家の面倒も、アリーゼ・ケルベルはみている。  このアリーゼ・ケルベルという女性は、池田菊苗にとって、何であったのか。  森鴎外の『舞姫』にみられる「エリス」のような存在、つまり、留学中の愛人が、日本まで追っかけてきたのだ——という説がある。すでに、公表されているものでは、鈴木三郎助の伝記の著者、石川悌次郎がそう書いている〔注7〕。  他方、グルタミン酸の研究に当たって、池田菊苗に、資金を出した女性であったという見方もある。一九〇七年(明治四〇)の秋に、池田は、中等学校卒業程度の青年を、自宅に住みこみの助手として雇い入れている。それもわざわざ、広島から雇っている。当時の池田家の財政状況では、とてもそれだけのゆとりは考えられない。さらに、アリーゼ・ケルベルのことを記している菊苗のドイツ語の日記風のメモには、この助手のことも、また書きこまれている。どうも、この助手を雇う資金はアリーゼが出したらしいのである。  愛人であったのか、出資者であったのか、あるいはその両方であったのか——それはまだ、じゅうぶんに解明されてはいない〔注8〕。 特許の延長をめぐって  一九一三年(大正二)、池田は日本化学会会長に就任する。このころになるとようやく、彼は自分の家が買えるようになる(麹町区富士見町)。積年の借金が完済近くなったのである。一九一七年(大正六)に、財団法人・理化学研究所が発足すると、その化学部長に招かれる(物理部長は長岡半太郎であった)。  帝国学士院会員に選ばれるのが一九一九年(大正八)である。 「グルタミン酸塩……」(一九〇八)の特許の期限は一五年間だった。したがって、一九二三年(大正一二)には、この特許は広く一般に公開されるはずであった。  池田菊苗自身も、当時、公開の気持ちに傾いていたらしい。ところが、製造と販売とで過去一五年間、苦闘を重ねてきた鈴木三郎助は、不同意であった。出費のみ多く、積年の努力はまだ報われていない——というわけである。  鈴木は政界や宮内省筋に特許延長を働きかける。結局、特許庁から、異例の期限延長(六年間)を彼はとりつけた。となると、特許権の共有者である池田菊苗にも、この線で同意してもらわねばならない。  そこで、鈴木三郎助は金を積んだのである。公表されてはいるが、確実性の点で、かなり疑問のある資料〔注7〕——によると、  鈴木三郎助は、菊苗に、「百万円の一時金」と「生きている限り、毎年一〇万円の寄付」とを申し出たという。現在の物価水準を当時の二〇〇〇倍とみると、このころの一〇〇万円は、現在の二〇億円に相当する。池田菊苗は同意書に、印を捺《お》した。これが一九二二年(大正一一)の暮近くであったようだ。 東大教授を辞任、再びライプチヒへ  こうやって、「百万円の一時金」と「毎年一〇万円」の金とを確保できた池田は、翌一九二三年(大正一二)三月には、東大教授をさっさと辞任してしまう。満五十八歳。当時、東大理学部での定年の申し合わせは六十歳だから、二年も早く辞めたことになる。そして、荏原《えばら》区戸越《とごし》(現在の品川区豊町)に約二〇〇〇平方メートル(六〇〇坪)の土地を購入し、家族のための住居を新築する(関東大震災の年であった)。  翌一九二四年(大正一三)三月、池田は再び、ライプチヒへ向かう。彼にとって二三年ぶりの渡独である。一年半後に、いったん帰国はしたものの、四ヵ月間、東京に留まると、三度《みたび》ライプチヒへ赴《おもむ》く。  それから一九三一年(昭和六)の半ばまで、通算して六年半ばかりを、彼はライプチヒに居続ける。妻、貞子は伴っていない。  広い庭をもった三階建ての住居、兼研究所を彼はライプチヒの郊外に構えている。六人の子女のうち、下の三人に当たる娘と息子とをここにひきとって、ヨーロッパで教育を受けさせる。  池田自身は、私設の、この研究所と、ライプチヒ大学の電気化学の研究室とを仕事場としながら、自分の思うままの生活を送る。「甜菜《てんさい》糖の廃液から、グルタミン酸を採取する方法」「耐酸塗装法」などの特許が、この時代の成果であった。 帰国——そして最晩年  一九三一年七月、長かったライプチヒでの生活をようやく引き払って帰国。六十七歳である。先に購入しておいた荏原区戸越の土地に、私設の研究所をまたも新築する。これは鉄筋コンクリート二階建てで、住居も兼ねていた。当時にはめずらしく冷房設備も備えていたという。屋敷内には、このほかにも実験棟をつくり、五、六人の助手と使用人とが勤務した(この研究所の建物は、今も残っている。現在は日本音楽学校の教室になっている)。  池田とは同世代の東大教授で、物理学者である長岡半太郎は、先にも触れたが、学者として、もっとも望ましい研究のあり方についてこうのべていた(講演「研究の自立について」、一九三六)。  学者は、できることなら、まず金をもうけて、自立して、何の拘束もなしに自分の好きな研究をすることが、もっともよい。そうすれば研究の成果が大いに挙がるだろうと——。  池田菊苗の晩年の研究生活は、長岡の理想にはかなり近いものであった。しかし、残念なことに、そんな理想的研究生活からは、あまりめぼしい成果はみられない。研究成果を出すにしては、池田自身が年老い過ぎていたのは確かなのだが……。  一九三六年五月三日、腸閉塞で、池田菊苗は急逝する。七十一歳であった。 二三年間に、二二編の論文を  池田の業績を整理しておこう。  まず理論化学の仕事としては、二二編の論文が書かれている。東大の大学院生の時から、日本化学会長になる前年(一九一二)までの間、約二三年間に発表されたものだ。  英文のものが五編、独文のものが四編、あとは日本文のものである。英文、独文のものには、日本語で発表した研究内容を、翻訳し直したものが多い。  オストワルドの研究室で新しくやった白金の触媒現象の研究は、ブレデッヒとの共著で、最初、独文で発表された。それを、あとから日本語に訳している。だから二三年間に二二編の論文とはいっても、その中身には、かなりの重複がみられる。  研究内容には、「各種アミノ酸混合物の電気泳動法による分割の方法」(一九一一)とか「酵素の速度論的な研究」(一九一二)など、非常に先駆的なものも、あることはある。しかし、理論化学の仕事として、後世に残るほどの決定的な成果はなかった、といわねばならない。  他方、特許の面では、国内のものが三二件、海外が一七件。国内、海外ともグルタミン酸塩を主とした化学調味料に関したものが、当然ながらトップである。  グルタミン酸に関連した研究には、醤油《しようゆ》(アミノ酸調味料)の製造もあげられる。グルタミン酸をとり出した残液を有効利用して、これからアミノ酸調味料の醤油をつくろうとしたのであった。この研究は、しかし、その当時、成功には至らなかった。第二次大戦のあとになって、これは工業化される。  他方、コンブの「うま味」の解明に次いで、鰹節《かつおぶし》の「うま味」の研究も進められた。これは弟子に当たる小玉新太郎(一八八五〜一九二三)にやらせて、一九一九年(大正八)に成功する。鰹節の「うま味」の本体は、イノシン酸であった。これの商品化も第二次大戦のあとのことである。  彼の海外特許はアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、メキシコの各国にわたっているが、どういうわけか、ドイツでの特許は、ひとつもみられない。晩年も、六年半にもわたって、ライプチヒに滞在して研究していた。にもかかわらず、これはどういうわけなのか——目下、私には、明らかではない。  グルタミン酸塩に関係した特許以外のもので、実用につながったのは、酸性白土などを利用した乾燥剤(アドゾール)である。これは、電話交換機室の空気の乾燥用として、また帝国劇場での冷房用としても実用されたものであった。  このほか、海水からの工業的製塩法(今日でいえば海水淡水化装置に近い)の開発や、排煙脱硫技術の開発などを手がけている。酸性白土をはじめ、これらの研究は理化学研究所をベースとして進められたものであった。しかし、いずれも決定的な成果を収めるには至っていない。ただ、海水淡水化の技術にしても、排煙脱硫の技術にしても、ともにごく最近、二〇年ばかりの間に、ようやく実用化に至ったものである。それを考えると、池田菊苗の時代(大正中期)に成功できなくても、責めることはできまい。むしろ、そこに着眼していた、見通しの正しさこそを、評価すべきであろう。 自己主張の重要性を説く——三猿《さんざる》主義批判  物理学者の長岡半太郎と違って、池田菊苗は、文筆の上では寡黙《かもく》である。専門分野での翻訳書や、教科書こそ書いてはいても、自分の思想や人生を語ったような著書はない。  だから、池田菊苗がどんな思想をもっていた人物かは、せいぜい座右の銘とか、追憶録を介して、うかがい知る外に術《すべ》はない。  池田菊苗は晩年、座右の銘として、 「学而不思則罔《まなんでおもわざればくらし》 思而不学則殆《おもうてまなばざればあやうし》」という一句を愛していた。論語のなかの一句である。  自分自身の座右の銘としただけではない。「菊苗」の二文字を配した形にした青銅製の文鎮《ぶんちん》を、たくさん作っている。主として弟子たちに贈ったのである。  他から吸収し学ぶだけで、自分から積極的に考えることをしなければ、くらいぞ、しかし反面、自分で考えるばかりで、他から受動的に学ぶことをしなければ、これまたあやういぞ——という意味である。彼の師のオストワルドの「エネルギー一元論」は「原子論」から学ぶことが遅かったばかりに、結局は敗退した。それを見ての感懐も、ことによると、この青銅の文鎮にはこめられていたかもしれない。 「見よ聞けよ 且《か》つ又言えよ 今年から 三猿《さんざる》主義は 固く禁物」  という“戯《ざ》れ歌”を、新年の講義で黒板に書いたことも、教え子たちにはよく知られている。日光・東照宮にある“見ザル、聞かザル、言わザル”の三猿《さんざる》主義に対する批判であった。  ここでも「且つ又言えよ」と、彼は自己主張の重要性を説いている。  とはいうものの、師のオストワルドとは違って、池田菊苗自身は、生涯、あまり声高《こわだか》に、自己主張をした人ではなかった。  女に対しては、どんな見方をしていたのだろうか。  東北帝大が女子学生の入学を許すようになったときは、非常に賛意を示していた、という。 「国民の半分が女であるのに、その女の知識の程度が低くては、一国の文化は高くならない」と洩《も》らしていたそうだ。  他方、自分の三人の娘の中の一人が、みずからの意思で女子商業学校に進学するのを、すんなりと認めている。商家の娘ならともかく、学者の娘、それも東大教授という上流階級の娘が女学校ではなく、女子商業に進むというのは、当時、少なからず異色である。  彼の妻、貞子にしても、つまり、当の娘の母親にしても、お茶の水女学校の第一回生であった。簿記とかソロバンの技術を身につけることによって、女が自立し、自活することも、女が大学に進むことと等しく、たいせつだと、彼は認識していたのかもしれない。とりわけ、アリーゼ・ケルベルというドイツ婦人が身近に存在していたことを考えあわせてみると、池田菊苗のこの女性観はうなずけそうに思う。アリーゼ・ケルベルは、シーメンス東京支社の会計担当として、異国にあっても自活していた婦人であった。 青眼の構え  終生、私淑《ししゆく》した師のオストワルドは博識の学者であった。池田菊苗も、専門外のことについて広範な知識の持ち主であったという。池田の場合、若い苦学生の時代に、翻訳の仕事で生計を立てねばならなかった。そんな現実の必要性が彼の読書の幅を、いや応なしに広げたようである。  大学院の学生のころ、出張講義に出向いた国学院大学では、シェクスピアを教えている。彼がなくなった際の枕許《まくらもと》には、ディケンズの小説『デイビッド・コパフィールド』(英書)が開かれてあったそうだ。少年期には、婦人宣教師についてキリスト教の宣教の手伝いをしているし、晩年は仏教にくわしく、大蔵経の全巻を所蔵していた。  彼の講義にも、日常の語り口にも、哲学者の趣きが強かったと、多くの弟子たちは語っている。  このように博識であり、哲学者の面影があったというところも、彼の師のオストワルドに酷似《こくじ》している。ただ、オストワルドに比べると、池田菊苗は、はるかに、慎《つつ》ましい。そのことが、池田のスケールを小さく見せてもいる。オストワルドのような強い自己主張が、池田にもあってよさそうにと、私は思う。  この点は、同世代の学者である長岡半太郎と比べてみても、いえそうだ。  ある弟子がこういったという。  剣道でいえば、長岡半太郎は「大上段の構え」であり、池田菊苗は「青眼の構え」だと——。 「青眼の構え」とは中段の構えで、剣先を相手の眼のあたりにねらった構えをいう。守りにも、攻めにも、もっとも確実な構えである。  長岡は「大上段」に振りかぶったのではあるが、「原子構造」を、みごとに立ち割った——とはいえなかった。それに比べると、池田はもの静かな、「青眼の構え」でもって、ピタッと、「グルタミン酸塩」を、切り落とした——のであった。  この次の章では、これまでとは少し趣きをかえて、夏目漱石にとって、創造の根源が何であったかを検証してみたい。いうまでもなく漱石は文学者である。彼が創造したものは文学であった。しかし、すでに触れたように、ロンドンにおける漱石の創造活動の源泉には、池田菊苗が深い影響を与えている。それは、どんな影響であったのであろうか。  オストワルド—菊苗—漱石、それぞれは、各々別々に独自の創造を成しとげた人物である。しかし、それぞれお互いに、何らかの影響を受け、そして影響を与えている。その響き合いは、いかなるものであったのか。自然科学者にとっての創造と、文学者における創造とは、世の人々が考えているほどに、異質のものであるだろうか。 〔注1〕『東京化学会誌』 第三十帙、一九〇九年刊=明治四二年。 〔注2〕マンニット=マンナの樹液、セロリ、きのこや海藻などに含まれる甘味のある無色の結晶。トネリコ属の植物マンナから、抽出されるので、マンニットの名がつけられる。 〔注3〕 W・オストワルド(Friedrich Wilhelm Ostwald, 1853〜1932)ドイツの化学者。一九〇九年、希釈律法則の発見、反応速度・化学平衡の研究で、ノーベル化学賞を受ける。硝酸製造に関するオストワルド法の創始者。アレニウスやファント・ホッフとともに新しく「物理化学」なる学問を提出した。また、彼は自然現象から人間の精神現象までを、エネルギー論によって一元的に解釈しようとする科学哲学も提唱。二十世紀初頭、原子分子論者を相手に激しい論争をまき起こした。 〔注4〕 桜井錠二(一八五八〜一九三九)日本化学会の元老。彼の研究「溶質の分子量決定のための沸点上昇法の改良」(一八九二年、九三年)は、有機化合物の分子量決定の世界的基準となった。科学行政面での業績が大きく、最後は帝国学士院長をつとめた。 〔注5〕『Die Energie』は、日本語訳『エネルギー』(山縣春次訳、岩波文庫、一九三八年刊)が出ている。 〔注6〕『池田菊苗博士追憶録』の四四ページをみると、水田政吉氏が、明治二〇年代終りごろの話として、「先生の味の素研究は、遠く先生の理科大学在学中に始まっております。お宅の台所で、学帽をかぶった先生が、よく手づから昆布や、筍の類を煮つめておられるのを見受けたものであります」と書いている。水田氏は、その当時、池田家に書生として住みこんでいた。 〔注9〕『鈴木三郎助伝』(石川悌次郎著、日本財界人物伝第一八巻、東洋書館、一九五四年刊) 〔注8〕 アリーゼ・ケルベルの謎 池田菊苗の後半生には、Miss Alice Koelbelという、ドイツ婦人の影がつきまとっている。一九五四年(昭和二九)ごろ、八十二歳くらいで、ライプチヒでなくなった独身の女性である。    池田は最初のライプチヒ滞在中(一八九九〜一九〇一)に彼女と知りあったらしい。彼女は、池田が帰国した六年あと、一九〇七年(明治四〇)に来日。そのあと、少なくとも一九一九年(大正八)までは、日本に滞在した記録が残っている。しかし、一九二三年(大正一二)には、滞在した記録が消えている。    一九〇七年の来日には、Miss Emily Koelbelという、姉か妹らしい女性も伴っており、このEmilyも、一九〇七年から二年にわたって、Aliceとともに日本に滞在している。二人ともドイツのシーメンス会社の東京支社に勤めていた。ことによると、AliceとEmilyの両親(Eltern)も、一九〇七年にはやってきていたかもしれない。    この年の一〇月ごろ、池田菊苗はドイツ語で書いた日記(Tagebuch)を残している。それにはAliceとEmilyとEltern(両親)のことが、短く書かれている。両親が、本当に来日していたとしても、その滞日期間は、たぶん、数ヵ月以内。かなり、短かったと考えられる。    来日してから二年間、アリーゼとエミリーの住居は、池田菊苗の住居(当時、本郷区駒込曙町一五番地)の隣の番地になっている。そして、エミリーが帰国したあとは、アリーゼは、「本郷区駒込千駄木町五七」に移転して、そこに居続けている。    池田菊苗の子どもたちは、子どものころから“タンテ・アリーゼ(アリーゼおばさん)”と呼んで、親しくしていたようだ。『追憶録』にも遺族や、弟子たちのことばとしてアリーゼ・ケルベルの名前が散見できる。    池田菊苗が晩年(一九二四〜一九三一)、ライプチヒに滞在して研究生活を送ったころには、彼女もライプチヒに戻って、池田菊苗や、その子女たちの面倒をみている。ただし、菊苗たちの父子と同じ家に住んでいたのかどうかは、わからない。    グルタミン酸塩——すなわち化学調味料の発明に当たって、アリーゼが、池田菊苗に、助手を雇う資金を出したのではないか——という見解が、すでに一九五四年に公刊された石川悌次郎の著書(注9参照)には、みられる。私費で、住込みの実験助手を池田が雇ったことは事実であるし、発明当時の、池田家の財政状況がそれを許すものでなかったことも事実である。この二つの事実とアリーゼが高給とりであったことから、石川は、助手を雇う資金を、アリーゼが池田に出した——と推測するのである。また、この助手の雇い入れに関する記述も、前記、池田菊苗のドイツ語の日記にはみられる。しかし『追憶録』などには、こうした事情はいっさい、示されていない。    他方、池田家の遺族は、私からの問合わせに対して、アリーゼ・ケルベルさんと、池田菊苗との関係は、“精神的な交際”であったと、答えている。 第五章 夏目漱石 オストワルド——池田菊苗からの影響 「文学論」の構成 漱石にみる創造体験 「自己本位」かちの出立 文学者と科学者との響き合い  この本の主題は「日本人と科学技術の創造性」である。この主題を明治の科学者像について、具体的に検証してみたい、というのが、この本のテーマである。にもかかわらず、この一章では文学者、夏目漱石を題材にしようとしている。  なぜか——。  それは彼が、創造活動の根源にある“秘密”を語ってくれているからである。しかも、その漱石の創造活動の根源のあたりには、池田菊苗《きくなえ》の影響がみられるからである。  池田菊苗は自然科学者であり、夏目漱石は文学者である。二人は違った領域に住む人であった。それにもかかわらず、ロンドンにおいて二人は深く響き合っている。そんな響き合いの中から、漱石は創造への糸口をつかむ。そこのところを見きわめてみたい。そのためにこの一章はあえて、文学者、漱石にスポットライトをあててみることにした。 幽霊の様な文学をやめて——  一年七ヵ月にわたるライプチヒでの研究生活を終えて、池田菊苗《きくなえ》が、ロンドンにやってきたのは、一九〇一年(明治三四)の五月の五日であった。日本への帰国は目前である。オストワルドの許《もと》での研究も、まずまずの成果を得た。おそらく池田菊苗は、意気揚々とした気分で、ロンドンにやってきた——であろう。  彼のロンドンでの滞在は、八月末までの約四ヵ月。英王立協会(The Royal Institution)での研修が主な目的であった。  この四ヵ月のうちの最初の七週間を、彼は夏目漱石と同じ下宿(ロンドン南部のTootingにあった)で過ごすのである。  菊苗は三十六歳で、漱石は二つ若い。  この七週間の間、二人はよく語った。深く語り合った。  日本語でこんなに話ばかりしていたのでは勉強にならぬ——というほどで、やがて二人は別々の下宿に移るのである。それほど意気投合したらしい。  この七週間の対話で、得るところが大きかったのは、漱石のほうだった。 「池田君は理学者だけれども、話してみると、偉い哲学者であったのに驚いた。大分議論をやって、大分やられたことを今に記憶している。ロンドンで池田君に会ったのは自分には、大変な利益であった。御陰《おかげ》で幽霊の様な文学はやめて、もっと組織だった、どっしりした研究をやろうと思い始めた」〔注1〕  と、漱石は帰国したあと、五年目の一九〇八年(明治四一)に、追想を書いている。  では、夏目漱石にとって、池田菊苗との対話は、どのように、有益であったのか——。  もっとも端的に、かつ即物的にいうならば、それは漱石が『文学論』という著作を、つくりあげていく上で、有益だったのである。  この『文学論』とは、漱石が帰国した直後、東大英文科の講師として、約二年間、講義をしたものだ。一九〇七年(明治四〇)には公刊されている〔注2〕。  この『文学論』の、最初の基本構想を漱石はロンドンで構築したのであった。 「幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だった、どっしりした研究をやろうと思い始めた」というのは、この『文学論』のことを指している。  ただ、漱石のこの著作は、残念ながら、あまりできのよいものではない。彼自身、「失敗の亡骸《なきがら》」と認めているほどだ。  だから、そんな失敗作を産み出すのに、池田菊苗が影響を及ぼしたとて、それだけでは、さして意義があるとは思えない。  しかしながら、この『文学論』は、漱石の、創造の原点になった作品であった。これを書こうとしたときの、創造体験が貴重なのである。漱石の『文学論』は、そのような意味で重要なのである。 「夏目 狂《きよう》セリ」  一九〇一年(明治三四)の春、ライプチヒにまだ滞在していた池田菊苗ほ、知人の紹介を得て、夏目漱石に手紙を出している。ロンドンでの下宿捜《さが》しの依頼である。これに対して漱石は、自分の下宿に空いている部屋があるが、いかがか、といった趣旨の返事を出す。それがきっかけで、二人の交遊が始まっている。  そのあと、五月五日から六月二十六日までの間、池田菊苗は漱石と同じ下宿に部屋を借りることになる。この間の、漱石の日記には〔注3〕、 「五月六日 池田菊苗氏トRoyal Instituteニ至ル 夜十二時過マデ 池田氏ト話ス」 「同 九日 夜 池田氏ト英文学ノ話ヲナス 同氏ハ頗《すこぶ》ル 多読ノ人ナリ」 「同十五日 池田氏ト世界観ノ話 神学ノ話抔《など》ス 氏ヨリ哲学上ノ話ヲ聞ク」 「同十六日 夜 池田氏ト教育上ノ談話ヲナス 又 支那文学ニ就《つい》テ話ス」 「同二十日 夜 池田ト話ス 理想美人ノdescriptionアリ 両人共頗《すこぶ》ル精《くわ》シキ説明ヲナシテ 両人現在ノ妻ト 此理想美人ヲ比較スルニ 殆《ほと》ンド比較スベカラザル程 遠カレリ 大笑ナリ」 「同二十一日 昨夜シキリニ髭《ひげ》ヲ撚ッテ談論セシ為 右ノヒゲノ根本《ねもと》イタク出来物《できもの》デモ 出来タ様ナリ」  漱石はこの一ヵ月のうちの六月一九日、ドイツ留学中の友人、藤代禎輔氏(独文学者)への手紙で、こうも書いている。 「目下は池田菊苗氏と同宿だ。同氏は頗《すこぶ》る博学な色々な事に興味を有して居る人だ。且《か》つ頗る見識のある立派な品性を有している人物だ。然《しか》し 始終 話し許《ばか》りして勉強をしないから いけない。近い内に 同氏は替《かわ》る。僕も替る」〔注3〕  こうして六月二六日には池田菊苗が引っ越し、翌七月二〇日には夏目漱石も、別の下宿に移っていく。  だが、お互い、引っ越したあとも、一〇日に一度くらいの割で文通や会食をしたようだ。  池田菊苗がロンドンを立って、日本へ帰る日は八月三〇日。  そんな菊苗を、ロンドンのAlbert Dockで見送ったあと、九月一二日付、寺田寅彦あての手紙で、漱石は書く。 「つい此間 池田菊苗氏(化学者)が帰国した。同氏とは暫《しばら》く倫敦《ロンドン》で同居して居った。色々話をしたが、頗《すこぶ》る立派な学者だ。化学者として同氏の造詣《ぞうけい》は僕には分らないが、大なる頭の学者であるという事は、慥《たし》かである。同氏は僕の友人の中で尊敬すべき人の一人と思う。君の事をよく話して置《おい》たから、暇があったら是非訪問して話をし給え。君の学問上其他に大《おおい》に利益がある事と信ずる」〔注4〕  寺田寅彦は、漱石の熊本時代(第五高等学校教授)からの俳句の弟子であった。この手紙のころには、すでに東大理学部の学生で、東京に移っている。  漱石と池田菊苗とのロンドンでの七週間の交遊は、記録にみる限り、ざっとこうしたものであった。 事前の心構えのない、漱石の留学  夏目漱石の留学というのは、かなり無計画なものである。海外へ出かけようとする意欲とか、事前の準備、心構えのほとんどみられない留学であった。  それは池田菊苗や、北里柴三郎らの留学の場合と比較してみると、歴然としている。  彼らは、みんな官費留学生である。国から命ぜられて出かけたのである。しかし、池田や北里らは、みずから望んで留学している。これに対して、漱石の場合は、さして望まない留学であった。だから、事前の準備とか、心構えがまったくみられないのである。  だが、それでいて(あるいは、それであるが故に……かもしれないのだが)、漱石が留学の際に抱いていったテーマは、大き過ぎるテーマであった。  大き過ぎるテーマと、貧しい“構え”との落差に、漱石はロンドンにやってきて、はじめて、がく然と気がつくのである(ただしこれは漱石の英語の実力が貧しいという意味ではない。彼の英語の力は相当なものであった)。  この大き過ぎるテーマを、何とかモノにしようと、彼は苦悩し、ひとり格闘するのである。だから、この大きな落差の故に、漱石のロンドンでの、二年ばかりの留学生活は、実に沈うつである。はたから見ても沈み切っていた。一時は、「夏目 狂《きよう》セリ」という電報が、ロンドンの知人から、東京に向けて発せられるほどである。漱石自身、後年こう書いている。 「倫敦《ロンドン》に住み暮したる二年は、尤《もつと》も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって、狼《おおかみ》群に伍する一匹のむく犬の如くあはれなる生活を営《いとな》みたり」と〔注5〕。 「ただ一本の錐《きり》があれば」——  漱石がイギリス留学に際して、抱いていたテーマとは何であったのか——。  それは、「英文学とは何ぞや」というものであった。これは、北里柴三郎や池田菊苗のような、理科系の人々のテーマに比べると、いちじるしく漠然としている。プロらしくなく、しろうとっぽいテーマである。それだけに、スケールの大きなテーマではある。  北里ならば、細菌学(細菌のことだけを取り扱う学問)がテーマであった。これは、医学全般の中での、ある限られた、狭い分野である。それをテーマとして、コッホという師匠の許で学ぶのである。  池田菊苗の場合もそうであった。彼が、オストワルドの許で直接、手がけた研究は、触媒に関するものであった。  理科系であろうと、文科系であろうと、およそプロの研究者を志向する者は、だいたいこうした、ある限定したテーマを抱いて、留学するものである。そして、そのような狭いテーマを掘り下げながら、周辺の学問や、先進国の社会全般について、できるだけ広い識見を得てこい——というのが、だいたい留学生に対して求められる祖国からの要請である。  おそらく英文学を、プロとして専攻しようという、構えのある研究者であったならば、それが明治時代ではあったにせよ、もっと限定したテーマを準備したであろう。たとえば「シェクスピアについて」とか「カーライルについて」とか——。  ところが漱石の留学に当たっての“構え”は、そうではなかった。 「余が英国に留学を命ぜられたるは、明治三十三年にて、余が第五高等学校教授(注=熊本)たるの時なり。当時、余は特に洋行の希望を抱かず」〔注5〕  ——というわけである。  だから彼はいったんは、この命を辞退している。しかし、推せんしてくれた校長や教頭のすすめもあって、結局、彼は“留学の命”に従う気になる。  だが、イギリスに留学をして何をやってこいというのか——。それを問いただすために、彼は熊本からはるばる上京して、文部省専門学務局長(上田万年)を訪ねている。文部省の意向は“英語を勉強してこい。別段、窮屈《きゆうくつ》にとらわれるな”というものであった。これに対して、漱石は、自分は“英文学なら研究してみたいが、このテーマでも、よろしいか”と念を押している。  留学に当たってこのように、薄弱な意思や、態度で臨《のぞ》むということは、北里柴三郎や池田菊苗にはまったくみられない。北里らは、大学にいるときから、いやおそらくは大学に入るころから、すでに海外留学のチャンスをねらっている。大学を卒業して職につくときでも、海外留学のチャンスを配慮した、職の選び方をしてもいる(森鴎外にしても、そうであった)。  彼らは、もっとずっと強固な意思や願望をもって、留学したのであった。それに比べると、そもそも、漱石には、最初から、帝国大学教授を目ざそうという志望もみられない(文人のような仕事でもって、大成したいという、もやもやとした願望はあったのであるが)。  そのことは、彼の若い時代の職場の遍歴《へんれき》からもうかがえる。大学の英文科を卒業すると、まずは東京高等師範学校の教師となる。しかし、あまりさだかでない事情で、間もなく、そこを辞める。松山中学校(愛媛県)に移って、英語教師になり、さらにそれから、熊本の第五高等学校の教授に移る。  そのあたりの心境を、彼はこう告白する。 「私は此世に生まれた以上何かしなければならん、といって何をして好《よ》いか少しも見当が付かない。私は丁度《ちようど》霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦《すく》んでしまったのです。……不幸にして何方の方角を眺めてもぼんやりしているのです。……恰《あたか》も嚢《ふくろ》の中に詰められて出る事の出来ない人のような気持ちがするのです。私は私の手にただ一本の錐《きり》さえあれば、何処《ど こ》か一ヵ所突き破って見せるのだがと、焦燥《あ せ》り抜いたのですが、生憎《あいにく》、其錐《そのきり》は人から与えられる事もなく、又自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底では、此先《このさき》自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。  私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引っ越し、又同様の不安を胸の底に疊《たた》んで遂に外国まで渡ったのであります」〔注6〕  そして、ロンドンでの生活を始めてみて、漱石は、たぶん、生まれてはじめて、のっぴきならない立場に、自分が立ち至っていることを、知るのである。留学という期限は、二年少々と限られている。その間に、ある成果を出してみたいと、本人は考えている。のんべんだらりと、二年間を送るのに甘んじられるほど、当人はふぬけではない。 方法論が見出せなかった 「英文学とは何ぞや」——すでに書いてきたことではあるが、これは大き過ぎるテーマであった。  だいたいプロの研究者というのは、こんな大きなテーマは避けて通るものだ。なるほど、漱石は高等学校(旧制)の教授ではあった。しかし、大学教授に比べると、研究者としては、それはプロに準ずる境遇である。英語教師だけに留まっていても許されるポストであった。それだけアマチュアに近い立場ともいえよう。だからこそ、「英文学とは何ぞや」というような、しろうとっぽい、文学青年が好きそうなテーマにとりつかれたのだと、私は思う。  ともあれ、そんなテーマであるから、ロンドンまでやってはきたものの、漱石には教えてくれる師匠が見つからないのである。  ケンブリッジ大学へも行った。ロンドンの大学でも聴講してみた。しかし、彼の設問に答えてくれそうな手がかりは見つからなかった。 「私は下宿の一間の中で考えました。詰まらないと思いました。いくら書物を読んでも、腹の足《たし》にはならないのだと諦《あきら》めました」〔注6〕  漱石には、このような大きなテーマにとり組む際の、方法論が見出せなかったのである。  彼が、池田菊苗に出会うのは、こうした日々の最中であった。  池田がロンドンにやってくる一九〇一年の五月初めというのは、漱石が、ロンドンに落ち着いて半年を過ぎるころであった。  異郷の地でめぐりあった、同じ国の者同士は、お互いに自分たちが、異郷の地で、今、何をやっているか、今まで何をやってきたか、それをまず語りあうものである。  ライプチヒの、オストワルドの許で、一年七ヵ月の間、池田菊苗がどんな研究をやってきたのか——それを漱石が、たずねなかったはずはあるまい、と私は思う。 「陰うつな日々」を送っていた漱石とは違って、池田菊苗は(プロの化学者として)ある充実した成果を、ライプチヒですでに挙げてきている。しかも、そこで彼の師であるオストワルドの壮大な学問的体系にも触れてきたばかりである。  菊苗と漱石との七週間にわたる対話の中に、そんなライプチヒでの体験が語られなかったとは、想像しにくいことだ。  おそらく、夏目漱石は、池田菊苗から自然科学における、体系だった、ものの見方、考え方、分析の仕方、総合の仕方——を聞かされたのだと、私は思う。  池田菊苗のただ“該博な知識”に、漱石が、それほど感銘を受けるはずがないと、私は思う。なぜならば、漱石は、「いくら読んでも、腹の足《た》しにはならない」と、単に書物を読んで、知識だけを得ることは、すでに諦《あきら》めていたのだから……。  彼が求めていたのは、方法論であり、何らかの体系的な見方、考え方であった。そこのところに、おそらく池田菊苗は触れたのだと、私は思う。  だからこそ、漱石は、この時から七年もあとの、一九〇八年の追想記に、こう書いたのである。 「池田君は理学者だけれども、話してみると偉い哲学者であったのに驚いた。大分議論をやって、大分やられたことを今に記憶している。ロンドンで池田君に会ったのは、自分には、大変な利益であった。御陰《おかげ》で幽霊の様な文学はやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた」〔注1〕 「文学論」の構成、その基礎方程式  このようにして、漱石がとり組んだのが『文学論』であった。  それは、いったい、どんな構成と内容をもつものであったか——。  漱石自身のことばに従えば、 「社会的に文学は、如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを究《きわ》めん……」というのが、彼のねらいであった。  若干、私なりに解説をすれば、「文学とは何ぞや」という主題を、英文学を主な材料としながら論じていったもの——というべきであろう。当初の、漱石のテーマは「英文学とは……」というものであったはずだが、ある時点で、このような形に、改めたのであろう。  ロンドンに落ち着いた彼は、当初、どこかの大学へ行けば、そんなテーマで講義が聴けるかもしれないと、考えていた。実際、いくつかの大学を訪ねて、試みに講義も聴いている。しかし、彼の目的にふさわしい講義も、教授も見つからない。彼はしだいに途方に暮れていく。そして最後には、結局、人に頼ってもだめだ、自力で作りあげるよりほかに手はないと、覚悟をきめるのである。  彼は大学へ聴講にいくことも、本を読むことも、いっさいやめてしまう。下宿に立てこもって、ともかくひたすらに自分の頭だけで考えることにする。 『文学論』の骨子は、こうして作られた〔注7〕。  その『文学論』の書き出しは、次のようなものである。 「凡《およ》そ 文学的内容の形式は(F + f)なることを要す。Fは焦点的印象、又は観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す。されば上述の公式は……認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものといい得《う》べし」  もっと、単純化していえば(F)とは、客観的事実のようなものであり、(f)とは情緒、感情のようなものであろう。 (F)の説明として、漱石は、たとえばニュートンの運動法則のようなものだと、例をあげる。  これに対して、“ただ単なる恐怖”といったものは、(f)であると、彼はいう。(f)の具体的事例として、シェリー(Shelley)の短詩をあげている。  そして(F)だけがあって、(f)の欠けるものは、文学として成立しない。  あべこべに(f)だけがあって、(F)を欠ける場合も、文学にはならない。  それ故に、「文学的内容の形式」は(F + f)なのだと、漱石は規定する。いってみれば、これが、彼の「文学論」の“基礎方程式”である。  まず最初に、基礎をこう設定しておいた上で、次に「文学的内容の基本成分」とは何か——と彼は分析する。  まず(F)=客観的事実=を構成する基本成分は何か。それは、触覚、温度、味覚、嗅覚、聴覚、視覚——などなどである。  次に(f)=情緒=を構成する基本成分は何か。恐怖、怒、同感、自我——などなどである。  これらの基本成分のそれぞれについて、バイロン(Byron)はこう書いているとか、ワーズワース(Wordsworth)はこういっている、といった類の例証を、漱石は挙げていく。  彼の『文学論』は、このように(F + f)を基軸としながら、展開する。文学という、ひとつの領域を、この“基礎方程式”を展開しながら、可能な限り、統一的に、かつ体系的に説明していこうとしているのである。  これは、まさに自然科学の手法そのものではないか。  自然科学の方法論とは、分析と総合である。森羅万象《しんらばんしよう》を、極力、単純なものに分解していく。分解して、分解して、究極的なもの、根源的な、何ものか(Something)をつかみ出そうとする。  それが、いったん明確になったら、その究極のSomethingを単位として、総合化を図る。そして、可能な限り、統一的な体系を樹立しようと試みる。  これが典型的な自然科学の手法である。実は、こうした典型的な手法で書かれているのが、池田菊苗の師、オストワルドの著書『エネルギー』(一九〇八年刊)〔注8〕なのである。 「原子」にとってかわる根源概念として、「エネルギー」を提唱し、これでもって、自然界から、人間の精神活動、さらには社会活動までも、統一的に説明しうるというのが、オストワルドの主張であった。『エネルギー』という彼の著書こそ、未だ、公刊されていなかったが、オストワルドの、この思想は、池田菊苗がライプチヒ留学のころには、すでに公《おおやけ》にされていた。  その科学哲学が、池田菊苗を介して、漱石に伝えられたのではないか。漱石の『文学論』には、そんな影響が濃厚に読みとれるのである。(ただ、これはあくまで“影響”というべきであろう。“踏襲”といういい方でも過度である。まして“模倣”とはいいがたい)。  この『文学論』をひもといてみると、このほかにも、池田菊苗からの影響を想わせるところが少なくない。 「私」—「個」こそが価値の根源  すでにのべたように、この『文学論』は失敗作であった。 「文学とは何故に必要なのか。いかなる必要性があって存在し、隆興し、衰滅するか」という、漱石の設問に対して、この著作は、ほとんど答えを出し得ていない。その意味において、これは失敗作であった。  故吉田健一氏(文学評論家。『東西文学論』)は、これを批評していっている。「科学で扱う物質と同じ意味で、客観的に存在する文学作品などというものは、もともとない」のだからと。  これは、当を得た批評だと、私も思う。ただ、しかし、それが畸形《きけい》の失敗作であったとしても、漱石にとっては、最初の創造体験であった。その創造の過程を、彼は書き遺《のこ》してくれている。  後世のわれわれにとって貴重なのは、実は、こちらのほうなのである。  ここで、漱石が書き遺した創造体験とは、「私の個人主義」というエッセイの中に告白されている〔注6〕。これは一九一四年(大正三)に学習院の学生に向かって語りかけた講演である。漱石が、亡《な》くなる二年前、すなわち四十七歳の時に、十数年昔の、ロンドン時代を振りかえって語ったものだ。 「文学とは何ぞや」を見きわめようとして、彼はロンドンで一人、苦悩した。そのあげくに、最後に立ち至った心境を、漱石は、こう語る。 「此時、私は始めて文学とは何《ど》んなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私は救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍《うきぐさ》のように其所《そ こ》いらをでたらめに漂っていたから駄目であったという事に、漸《ようや》く気が付いたのです。私のここに他人本位というのは……所謂《いわゆる》人真似を指すのです」(中略)。  これは、まさしく、漱石にとっての創造体験に外ならない。 「私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため……新しく建設するために……科学的な研究やら哲学的な思索に、耽《ふけ》り出したのであります」  では、その「自己の立脚地」とは何であったのか。彼自身のことばによれば、それは、「他人本位」ではなくて、「自己本位」ということであった。 「私は、此自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼等何ぞやと気慨が出ました」  ここでいう「彼等」とは、ロンドンで、漱石をとり巻くイギリス人たちを、指している。 「今まで茫然《ぼうぜん》と自失していた私に、此所《このところ》に立って、この道から、斯《こ》う行かなければならないと指図《さしず》してくれたものは、実に此《この》、自己本位の四字なのであります。自白すれば、私は其文字から新たに出立したのであります」(中略)。 「其時、私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって、陰鬱《いんうつ》な倫敦《ロンドン》を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間、懊悩《おうのう》した結果漸《ようや》く自分の鶴嘴《つるはし》をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです」(中略)。 「私の著《あらわ》した文学論は、その記念というよりも、むしろ失敗の亡骸《なきがら》です。しかも畸形児の亡骸《なきがら》です……。  然しながら自己本位という其時得た、私の考えは依然としてつづいています。否《いな》、年を経るに従って段々強くなります。……其時確かに握った自己が主で、他は賓《ひん》であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。私は、其引続《そのひきつづ》きとして、今日なお生きていられるような心持ちがします」  漱石は、「私の個人主義」の中で以上のように説いているのである〔注9〕。  この漱石の創造活動の根源にあったのは、何であったか——。それは「他人本位」ではなくて「自己本位」の覚悟であったと、漱石は宣言する。  この「自己本位」の覚悟とは、それでは、文学の創造の場合にのみ、限定されるべきものであろうか。自然科学や、技術の創造の場合は、別である、異質なのだと、いえるのであろうか。  彼のいう「自己本位」の宣言は、かつて、デカルトがいった「われ思う、故にわれあり」という命題と、ほぼ同じ内容を秘めている、と私は考えている。  他方、別の側面からいえば、「自己本位」とは「私《わたくし》」を是とみなす価値観でもある。公《おおやけ》のため、とか国のためとか、組織のためとかを、常に優先させようとする価値観には拮抗《きつこう》する価値観である。すなわち、 「私」—「個人」こそが、価値の根源であるとする価値観である。  だとしたら、「自己」—「私《わたくし》」—「個人」を蔑視したり、悪とみなしたり、あるいはそれを“二の次のもの”とみなす環境からは、創造活動は生まれにくい。  われわれが、今後、日本の社会において、より豊かな創造を求めようとするならば、創造活動の根源にあるものが、何であるかを、まず最初に認識せねばなるまい。漱石は、そのことを、日本の近代化の初期の時代に体験し、明確に示してくれたのであった。 〔注1〕「処女作追懐談」(『漱石全集・第二刷』一六巻所収、岩波書店、昭和五一年刊) 〔注2〕「文学論」(『漱石全集・第二刷』九巻所収、岩波書店、昭和五〇年刊) 〔注3〕「日記及断片」(『漱石全集・第二刷』一三巻所収、岩波書店、昭和五〇年刊) 〔注4〕「書簡集」(『漱石全集・第二刷』一四巻所収、岩波書店、昭和五一年刊)   「漱石と池田博士の交遊資料」(広田鋼蔵著、『学鐙』一九七八・五) 〔注5〕「文学論・序」(注2に同じ) 〔注6〕「私の個人主義」(『漱石全集・第二刷』一一巻所収、岩波書店、昭和五〇年刊) 〔注7〕『文学論』の骨子はロンドンで作られたのであるが、実際に、原稿になったのは、帰国してからである。 〔注8〕『エネルギー』(オストワルド著、日本語訳は、岩波文庫として一九三八年刊) 〔注9〕 漱石の「私の個人主義」は、前段において「自己本位」、「自我」こそがもっとも大切だと説いている。しかし、後段においては、他人の「自我」の尊重を等しく大切にせねばならないと、強調する。すなわち「近ごろ自我とか自覚とか唱えて、自分の勝手な真似」をする連中が少なくないが「彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては豪も認めていない」と、利己主義の立場を批難する。そして「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない。自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならない。自分の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならない」    それが、「私の個人主義」だと説く。この後段があることによってこのエッセイは、単なる創造体験の告白のみでなく、さらに、それを越えて、より普遍的な近代市民社会の基本倫理にまで到着した著作になっている。 第六章 鈴木梅太郎 ビタミンの第一発見者——にもかかわらず 酷似した内容のフンク論文 医者からも 薬学者からも 信用されず、 冷罵さえもあびせられて なぜ日本人の体格は……  日本に帰ったら何をやるべきか——それを考える度に、日本人の体格と、その主食である米との関連に、彼の想いは行きつくのであった。  前後四年五ヵ月にわたるヨーロッパ留学の間、鈴木梅太郎は、たえず、痛感していたそうだ。  なぜ、われわれの体格は、貧弱なのか。同じ蛋白であっても、肉の蛋白と米や麦の蛋白とはかなり違う。日本人が常食とする米の蛋白には、われわれの体格を貧弱にさせる何かがあるのではないか——。  彼が帰国するのは、一九〇六年(明治三九)の二月。この発想の延長線上で、一九一〇年(明治四三)、鈴木は、史上最初のビタミンを発見する。  ビタミンといえば、今ならたいていの人が知っている。その実体が何であるかはさておき、それが欠乏すると何らかの栄養失調をきたすこと——それぐらいは今日、まず常識といってよい〔注1〕。  しかし、そのビタミンが鈴木梅太郎(一八七四〜一九四三)によって最初に見出されたという事実——それは、今もって、われわれの間の常識ではあるまい。  一九一〇年から数えると、優に七五年の歳月が過ぎている。その歴史的評価も、すでに定まったといってよい。にもかかわらず、鈴木のビタミン発見の事実は、むしろ忘れ去られようとしている。というと、私ひとりの思い過ごしであろうか? 少なくとも、われわれの常識の基底に、この事実が定着しているとは、いえないだろう。  たまたま、「ビタミン(Vitamine)」という命名は、鈴木によるものではなかった。彼のつけた名称は、「オリザニン」であった。実験材料となった米ヌカ(糠)の「米」、それの学名(Oryzasativa)から、「オリザ」を採ったのである。  今日、確立している「ビタミン」という名称は、鈴木の「オリザニン」の仕事のあとで、カシミール・フンク(ポーランド出身の化学者)〔注2〕が定めたものであった。  鈴木梅太郎の、オリザニン(のちのビタミン)発見の第一報は、日本語で発表されている。そして、欧文(ドイツ語)による彼自身の報告が、ヨーロッパで知られるのは、このフンクの論文に八ヵ月遅れている。この八ヵ月の遅れが、鈴木梅太郎の存在を“二番せんじ”の如くに、誤認させたのであった。  フンクは、一九一四年、Die Vitamineなる著書を公刊、これによって新栄養素群——「ビタミン」を雄弁に提唱した。そして、新しい学問領域の存在を予言した。  こうした事情もビタミンの最初の発見者、鈴木梅太郎の知名度を、国の内外で低迷させる一因となっている。  しかし、それだけではない。鈴木にとってもうひとつの不運は、日本の国内でのことであった。  その発見から十余年間、彼の仕事は日本国内で無視され、黙殺されたのである。  鈴木の見出した「オリザニン」は、ビタミンの体系が確立すると、「ビタミン」と位置づけられた。このビタミンが欠乏すると脚気《かつけ》になる。それ故に、「オリザニン」は、当然、脚気の特効薬になってしかるべきものだった。しかも、明治から大正、さらに昭和初めにかけて、脚気は日本における深刻な社会病である(伝染病や結核とならんで——)。それだけに、脚気に悩む日本の社会や医学界では、オリザニンは喜んで迎えられるべき薬であった。  にもかかわらず、日本の医学界は、オリザニンの臨床実験(人体への実験)を一〇年近くかえりみなかったのである。  鈴木梅太郎はこう書いている。  自分の学説は「医学者からも、また薬学者からも全然信用されず、むしろ冷罵《れいば》さえもあびせられておった」——と。 ベルリンのフィツシャー教授の許で  一九〇三年(明治三六)の一〇月から約二年間、彼は、ベルリン大学のエミール・フィッシャー教授〔注3〕のもとで、蛋白質の研究を手がけている。  数種類のアミノ酸を結合して、ポリペプチド〔注4〕を合成する仕事であった。このポリペプチドをさらに高度に合成することができれば、蛋白質が作れそうである。  フィッシャーの研究室では、そんな蛋白質の合成を究極の目標としていた。しかし当時、そこまではまだたどりつけていない。アミノ酸から、やっとポリペプチドを合成するところまで、それが、そのころの生化学の最前線であった。その仕事を、フィッシャー研究室での有力なスタッフとして、鈴木は手がけていたのである。  一九〇六年、帰国に当たって、フィッシャーは鈴木にこう語ったという。 「日本に帰ったら、欧米にはない日本独特のテーマを選ぶべきだ。ヨーロッパでとりあげているようなテーマを選んだのでは、日本とヨーロッパとの研究設備の格差のために不利であろう……」  それは鈴木自身が、すでに予感していたことでもあった。  その年の二月末、鈴木は日本に帰る。さし当たってのポストは、盛岡高等農林学校の教授であり、それは東大農学部での席が空くのを待つ間の“腰かけ”であった(その約一年後に彼は東大教授になって、盛岡の方が兼任となる)。  創設したばかりの高等農林学校は、新進の気風にあふれてはいた。しかし、化学実験室といっても、研究用の機材はほとんどなかった。水道の配管が、特筆に値する設備であったという。  校長は週に一度、全校生と教官とを集めて、四書五経の訓話をした。「ブタは鼻の先から邪気を放出して、健康を保つ」——という「邪気学説」の主張者でもあったそうだ。 (余談ではあるが、三十三歳の鈴木教授はこの校長ににらまれて、減俸処分をくらっている)。 ニワトリの白米病の追試から  盛岡での鈴木は、ニワトリの白米病に関する研究からスタートした。  ニワトリの飼育実験である。ニワトリを三群にわけた。第一群は白米だけで飼育する。第二群には玄米だけを与えた。第三群は白米にヌカ(糠)を混ぜて食べさせた。  こうすると、白米だけで飼っている第一群には、人間の脚気症状に似た、白米病が発生する(正しくは多発性神経症と呼ばれた)。  これは明治期の、東北の、盛岡でもやれる実験であった。  ただ、これは追試実験であった。  オランダの医学者C・エイクマン〔注5〕が、一八八六年(明治一九)、すでに明らかにした研究の追試であった。エイクマンは、ニワトリの白米病の発見者である。バタビアで、この仕事をやっていた。バタビアとは、現在のジャカルタ、当時はオランダ領インドシナの首府である。  エイクマンは、この飼育実験によって、白米だけで飼ったニワトリが必ず脚気症状(多発性神経症)に陥ること、さらにこれにヌカを与えると治癒《ちゆ》すること——などを、すでに報告していた。  一八八五年(明治一八)ごろのバタビアは、脚気の研究では、世界でも注目を集めるセンターであった。脚気が細菌によって発症すると、誤った報告を出したペーケルハーリングも、このバタビアで仕事をしていた。彼は、エイクマンの師匠に当たる。  ペーケルハーリングの脚気細菌説(一八八五年)は当時、ベルリン大学にいた北里柴三郎によって、実験的に否認されたものだ(東京大学の緒方正規も、同じ年に、脚気細菌説を発表。これもまとめて北里に否認されている。)〔注6〕。  ペーケルハーリングの脚気細菌説を受けて、若干それを修正した形で、エイクマンは白米病の原因を、次のように推論していた。  玄米からヌカをとり除いた(精白した)白米には、貯蔵中に微生物が繁殖する。これが特殊な毒素を発生して、脚気症状の原因となる。  他方、ヌカの中には、その毒素を中和する物質が含まれている。この物質の中和作用の故に、玄米で飼育したニワトリ、あるいは、ヌカを与えたニワトリは、脚気症を発しないのだ——と。  一八八五年当時、バタビアにいたオランダ人研究者たちは、ヌカの中に存在するこの“物質”を、アルコールで抽出できることも、すでに認めていた。しかし、彼らは、脚気は一種の中毒症状だと考えていた。  それから二〇年あと、鈴木梅太郎は盛岡にあって、とりあえず、このエイクマンの追試実験から手を着けたのである。 ホプキンスの提示  他方、一九〇六年、イギリスからは生化学者F・G・ホプキンス〔注7〕が、あいまいではあるが、注目すべきひとつの“仮説”を提出していた。これはマウスの飼育実験にもとづくものであった。  ホプキンスはこういう。  動物の生育には、蛋白質と脂肪と澱粉と少量の無機物質——今まで知られていた、この四成分だけでは不充分なのではないか。何故ならば、この四成分だけで作った人工飼料によってマウスを飼育しても、健全な成長はできない。ところが前記の四成分に、ごく少量の牛乳を添加すると、初めて健全な生育ができるようになる。これは牛乳の中に、動物の生育に不可欠な、新しい何ものかが含まれているからではないか——。  ホプキンスは、ここまでの問題提起をしたのである。ただし、彼は、その“何ものか”が、何であるか、そこまでは言及していない。そこまでの研究には、彼は到達していなかった。  しかし、これは重要な予言であった。  この論文の発表された一九〇六年(明治三九)一一月というと、鈴木は盛岡にいた時期である。日本人の体格と栄養を蛋白質とそのあたりに、ひそかにネライをつけていた鈴木にしてみれば、ホプキンスの示唆は、見逃せないものであったろう。 脚気——深刻な社会病  脚気という病気は、今日のわれわれには、ほとんど見られない。  しかしかつて、それは深刻な社会病であった。といっても大昔の話ではない。明治から大正、さらに昭和初期までである。つまり、われわれの祖父母あたりまでには、恐ろしい病気だった。  脚気の原因がビタミンの欠乏とわかって、ビタミン剤が薬として出回る以前、わが国では、年間二万〜三万人がこのために死んでいる。軽症患者までを含めると、年間数十万人が、脚気にとりつかれている。  全身がけだるく、下肢に感覚異常があって、運動麻痺《まひ》もおこる。もっとも重症なのは衝心《しようしん》型の脚気だ。心臓の鼓動が激しくなり、胸が苦しく、苦しさのあまり、のたうち回る。病状の進むときは一日のうちに死亡する。  活動力のもっとも盛んな青年期には、ビタミンの消費も、もっとも激しい。だから、脚気は青年に多発する病気であった。  明治以降、わが国の工業化、都市化が進んで、都市へ青年が集中するとともに、都市部で激増した社会病でもあった。人々は農村にいる間は、ヌカ分の多い米や、麦をもっぱら食べていた。それが都市に出てくると、ヌカ分をとり除いた白米が常食となる。この生活環境の変化で、必ずといってもよいほど脚気にやられた。鈴木梅太郎自身、その経験者であった。  原因不明のままに明治時代には、開化病とも、文明病とも呼ばれて恐れられている。  なかでも脚気の激増に、もっとも困ったのは、軍隊であった。国是とする“富国強兵”のうちの“強兵”が得られないのである。  海上生活を余儀なくされる海軍で、まず、これが明白な大問題となった。  一八八二年(明治一五)、軍艦龍驤《りゆうじよう》が、遠洋航海中に起こした事件はその代表例である。二六二日間の航海中に、乗組員三七一人のうち、一六九人が脚気を発症。二五人が死亡したのだ。その当時、海軍の兵員は約五〇〇〇人。そのうちの実に三分の一までが、この脚気患者であったという。  海軍は、急遽、兵食を米麦混用に切り替えている。脚気の原因はつかめないままに、試行錯誤の末、この対策に到達したのだった。ともあれ、これは成功した。明治二〇年代には海軍での、脚気は、ほぼゼロに近づいている。  しかし一方、陸軍の首脳部は、海軍での苦い教訓を無視し続けた。脚気の原因をつかめぬままの“対症療法”では、陸軍の大部隊には、採用できぬという“筋論《すじろん》”であった。その結果、日露戦争(一九〇四〜〇五)において、満州(中国東北部)に出兵した陸軍は、一一万人もの脚気患者を出す。戦病者総数の実に半分は脚気であった。遅ればせながら、陸軍が海軍にならって、麦三米七の混合兵食に切り替えるのは、この戦争の最末期である。  鈴木梅太郎が盛岡で、ニワトリの飼育実験にとりかかる時代、つまり一九〇六年前後の、脚気をめぐる学問的背景と社会的背景は、ざっと以上のようなものであった。 ヌカの成分と白米の成分との分析比較  すでにのべたように、彼がとりあえず手を着けたのは、二〇年昔の、「ニワトリの白米病」の追試である。  しかし、その白米病の原因に関して、彼は二〇年昔の、エイクマンと同じ見解(中毒説)を採ってはいない。その点に関して、鈴木は、最新の、ホプキンスの見方に近かった。  蛋白、脂肪、澱粉(炭水化物)、それに少量の無機物質——この四つの外に、ごく微量の“新栄養素”があるのではないか。白米病(多発性神経症、脚気症状)は、その“新栄養素”の欠損が原因ではないか。  という見方である。  ホプキンスは、牛乳の中にその何ものかが存在しているらしい——と推論した。一方、鈴木梅太郎は、米のヌカの中に、その何ものかが、あるのではないか——とにらんだのである。  飼育実験の次に、鈴木はヌカの成分の分析と、白米の成分の分析とをやってみる。両方の成分の比較もしてみた。この仕事は、盛岡から東大農学部へ、引き揚げてきてからやっている。  米のヌカが、ニワトリの脚気症状(多発性神経症)の治癒に有効なこと——それは、すでにのべたように、早くエイクマンらが見出していた。しかし、ヌカの中のどの成分が、この有効成分なのか——。  ヌカの成分を分析してみると、フィチン(燐を含む化合物)が見出された。鉄を含む蛋白質もあった。カゼイン(乾酪素)もあった。ニコチン酸もあった。これらは、白米の成分には、ほとんど存在しないものだった。しかし、これらの成分を、脚気症状の実験動物(ニワトリやハト)に与えてみても治癒効果はまったくなかった。 「オリザニン」の発見——一九一〇年一二月  次に、ヌカを水にひたして得た抽出液を、動物に与えてみた。これは明らかに効果があった。脱脂ヌカを、熱したアルコールにひたした抽出液——これもまた有効であった。  熱したアルコール抽出液に、燐タングステン酸を加えると、沈澱物質が得られた。これは、赤色のジアゾ反応を示す物質であった。さらに、タンニン酸とピクリン酸を用いると、この沈澱物質は精製することができた。この最終精製物を、鈴木はとりあえず「アベリ酸」と呼び、間もなく「オリザニン」と命名する。  一九一〇年(明治四三)一二月一三日、東大会議所で開かれた東京化学会の例会で、鈴木梅太郎は発表する。助手、島村虎猪《とらい》との連名である。もちろん日本語の論文であった。 「白米の食品としての価値、ならびに動物の脚気様疾病について(第二報)」というタイトルである。この中で鈴木ははっきりと主張している。 「従来、学者が純粋の蛋白、脂肪、炭水化物、及び塩類を混合して、動物を飼育するも、決して天然の肉類、もしくは穀類をもってするが如く、動物の完全な生育をなさしめ能《あた》わざりしは、即ち、該物質を加えざりしによるものなること明らかなり」(傍点=飯沼)。  ここでいう「該物質」とは「オリザニン」を指している。鈴木は、さらにこうもいう。 「該成分(注=「オリザニン」)は、従来世人が動物の栄養食品として数うる以外のものにして、この発見により栄養論に関する諸種の問題を解決しうべき見込ある」……と。  鈴木とその研究チーム(島村、北尾富烈、大獄了ら)は、この第一論文に引き続き、矢つぎ早に、一連の詳報論文を発表していく。  オリザニンの抽出法について、動物実験の結果について——などなどで、いずれも、『東京化学会誌』に、日本語でなされた。 ヨーロッパへの速報と綜説  これらの一連の論文の抄録が、まずドイツの速報誌Zentralblatt f殲 Biochemie und Biophysikに出る。一九一一年八月であった。執筆者は照内豊(医学者。当時、北里門下の伝染病研究所員。のち慶応大・医化学教授)。鈴木梅太郎のドイツ留学時代からの友人である。  抄録とはいうものの、鈴木の原報告の要点は、ほとんど的確に伝えられている。実験材料に関しても、実験の試薬に関しても、実験の手法に関しても——。省略されていたのは、新しく発見された物質が、“新栄養素”であるとする、鈴木の「強い主張」の部分ぐらいであった(照内豊自身は、脚気の原因に関して、新栄養素論者ではなく、むしろ脚気中毒説に近かったからだ)。  鈴木みずから、一連の日本語論文をとりまとめて、ドイツ語の綜合論文として発表するのは、一九一二年(明治四五)の七月。たまたま、これは明治天皇の死去する、その月に当たる。発表誌はBiochemische Zeitschrift(「生化学雑誌」)。標題は"Uber Oryzanin"(オリザニンについて)。これに「米ヌカの構成要素と、その生理学的意義」という副題がついている。  しかし、ヨーロッパの学界が、鈴木の発見を最初に知るとしたら、この鈴木自身による綜合論文よりは、照内豊の紹介した「抄録」のはずである。つまり、一九一一年(明治四四)の八月であろう。それ以前の東京化学会誌に出した、鈴木の日本語論文は、まずヨーロッパでは読まれていなくても、仕方がない。 フンクの論文は……  ところが、照内の紹介した抄録がヨーロッパで発行されて四ヵ月後、すなわち、一九一一年一二月、C・フンクはこの抄録に酷似《こくじ》した内容の論文をイギリスで発表している。ポーランド出身の化学者である彼は、当時、イギリスのリスター研究所で仕事をしていた。  フンクの論文は「トリの多発性神経症(注=脚気症)を治癒する物質の化学的特性について」というタイトルで、発表誌はイギリスのJournal of Physiology(1911. Vol. 43.『生理学雑誌』)であった。  フンクは、米ヌカを実験材料としながら、トリの脚気症状の治療に有効な成分を抽出したと報告したのである。米ヌカという、ヨーロッパでは、むしろめずらしい実験材料を選んだ点も、実験の手法も、すでに発表されていた「抄録」の内容に、きわめて近いものであった。  ただ、フンクの抽出した有効成分は、鈴木梅太郎の言によると、実は無効成分であった。  のちに、一九二七年(昭和二)一〇月一三日、鈴木は、「ヴィタミンに就いて」と題して、天皇に「御進講」している。そこでのべられた鈴木の証言によると、フンクの抽出した“有効成分”は「ニコチン酸」である。これは脚気症には治癒効果のない成分だ〔注8〕。鈴木自身も、実験の早い過程で、フンクに先立って、これを抽出ずみであった。しかし、脚気には無効なるが故に、早く、検討の対象から除外した化学物質だった——と鈴木はいっている。  これは、公開の場での証言である。しかも、天皇への「御進講」という、ホラやデタラメがもっともいいにくい、公開の場での、講義である。  この鈴木梅太郎の言を信ずるならば、フンクの論文は、まず結論としてまちがったものといわねばならない。それだけではなく、「抄録」からの盗用にも近い。この抄録文を、くわしく検討した科学史家鈴木重昭氏(国立科学博物館)も、こう書いている(『科学史研究』一九七二、夏号)。  この抄録に紹介されている内容は「専門家であれば、ただちに追試、再現できるほどに、こんせつていねいである。(だから)……フンクはこの抄録を読んでから、かねてからの彼の腹案の実験にとりかかったのではなかろうか、と見る向きがある。このことは(三ヵ月もあれば)十分に可能なことである……」と。  ともあれ、フンクの論文には、鈴木のプライオリティ(優先権)を認めた跡はまったくみられない〔注9〕。  第一線の研究者として、フンク自身がドイツの速報誌に目を通していなかったとは、考えにくいことだ。だが、よしんばフンク自身が見落していたとしても、Journal of Physiology誌の編集委員たちまでも、こぞって先の抄録を見落していたのであろうか。プライオリティの判定こそ、学術誌にとって最優先の審査基準ではないのか——。  ともあれ、こうした経緯《いきさつ》で、ヨーロッパの学界では、フンクの一九一一年一二月発表の論文が、新栄養素発見に関する“第一報”として認知されたのである。  その結果、一九一二年七月のBiochemische Zeitschrift誌にのった、鈴木のドイツ語の論文、「オリザニンについて」には、プライオリティが認められなくなった。  フンクは一九一四年、さらに追い打ちをかけるようにして、Die Vitamineなるドイツ語の綜説を、一冊の著書として、出版した。  新栄養素を、「ビタミン」として明確に印象づけたのは、この著書であった。フンクは、この中で、新栄養素「ビタミン」が、単に一種類のものでなく、多種類(多元的)の「ビタミン」群であることを予言する。そして、その新栄養素の欠乏が、ある特定の病気をひき起こしている。その実例が脚気症だと、指摘する。  そして、このような予言と指摘とは、歴史的にみても正当なものであった。  こうした事情にもとづいて、彼、フンクは、やがてビタミン学説の始祖、創始者とみなされるに至る。 納得できないノーベル賞  一九二九年(昭和四)、ノーベル賞(医学・生理学部門)が、ビタミンの発見に関し、二人の化学者に与えられた。オランダのC・エイクマン(神経炎治療の研究)と、イギリスのF・G・ホプキンス(成長促進ビタミンの発見)の二人であった。  今日の時点から、学問の流れを振り返ってみると、このノーベル賞は、きわめて納得しがたい。  エイクマンもホプキンスも、先駆的な業績としては、たしかに認めねばならない。しかし、ビタミンを最初につきとめたのは、鈴木梅太郎であった。つまり決定打を出したのは鈴木であった。そのあと、ビタミン学説として体系化したのが、フンクであった。  フンクは、このノーベル賞受賞の以前から、ホプキンスをビタミン発見者と見なす、当時の学界の大勢に抗議する小文を発表している〔注10〕。だから、この受賞は、ヨーロッパの学界でも、当時、かなり疑問視されたという。  ちなみに、この時期のノーベル賞には、相当に大きなミスが目立っている。例をあげれば、一九二七年(昭和二)の、ノーベル生理学・医学賞も、明らかにまちがいだ。がんの原因となる線虫を発見した“業績”によって、デンマークのJ・フィビガーが受賞している。  がんの原因は線虫などによるものではない。そのことは今日、明らかである。  もしも、この時代に、がんの研究に関して、ノーベル賞を与えねばならないとしたら、それは山極勝三郎〔注11〕の仕事であるだろう。彼は、ウサギの耳にタールを塗りつづけることによって、世界ではじめて人工がんの発生を確認している。一九一五年(大正四)の仕事であった。  独創性というと、われわれは、たちどころに「ノーベル賞」を想起する。しかし、その名声のあまりに、ノーベル賞を無誤謬《ごびゆう》なものと、絶対視すべきではあるまい。 オリザニン——国内では臨床実験を拒まれて  鈴木梅太郎と「オリザニン」とが迎えるもうひとつの不運は、日本国内でのことである。  それは、鈴木梅太郎ひとりの不運というよりは、日本の社会全体にとっての大きな不幸であった。  すでにのべてきたように、当時、わが国では、脚気は深刻な社会病だった。年間三万人近くが、大正末期に至ってなお死んでいる。軍部も困り切っていた。一九〇八年(明治四一)、陸軍大臣は、朝野の研究者を集めた「臨時脚気病調査会」を発足させるほどであった。  脚気がビタミンの欠乏症であることは、今日ではすでに明らかだ。「オリザニン」は、外ならず、ビタミンそのものであるから、それは脚気に対する特効薬である。しかし、かつては、脚気がビタミンの欠乏症であることも、つかめてはいなかった。どだい、「ビタミン」というような栄養素が存在するのか、しないのかすら、わかっていなかった。  だから、新しく登場した「オリザニン」が脚気に効くか、効かないかは、人体実験によって、テストしてみるより外に、確認のしようがなかった。ところが、そんな臨床実験を、医学者の側が、長きにわたって、拒《こば》んだのである。  農学部の化学者である鈴木梅太郎の側では、相当に綿密な動物実験を、みずからやっていた。しかし、医者ではない鈴木の側で、人体への臨床実験をすることは、法的に許されないものだった。  したがって、鈴木は医学者や薬学者に、臨床実験による有効、無効の確認を要請したのである。ところが、鈴木の所説は「医学者からも、薬学者からも、全然、信用されず、むしろ冷罵《れいば》さえも、あびせられて」いた。  後年の彼の、この述懐はオリザニンの発見(一九一〇年)につづく、数年間の、事情を物語っている〔注12〕。  オリザニンの臨床実験が本格的に行なわれて、その有効性が承認され始めるのは、ようやく一九一九年(大正八)に至ってのことであった。  鈴木の発見から数えると、足かけ一〇年の歳月がいたずらに過ぎている。この間、脚気で死んでいった人々を想うならば、オリザニンの無視、黙殺は単に鈴木への「不幸」というだけではすまされない。あえて日本社会全体に対する積極的な“罪”とまで決めつけたいように、私は思う。  このような無視と黙殺が、何故に、そしてどのような状況のもとで、起こったのであろうか。 青山胤通《たねみち》が否定  鈴木梅太郎の研究室(東大農学部農芸化学)では、早くから「オリザニン」の動物実験を、数多く繰り返している。ハト、ネズミ、ネコ、イヌ、ブタ、ヒツジ、ウサギ——これらの実験動物を白米病にさせたうえで、オリザニンを投与、その治癒効果を確認している。ついで、彼は三共製薬に依頼して、人体に対する試薬(オリザニン液)をつくってもらう。これを大学の医学部に提供して、本格的な臨床試験を要請したのであった。  鈴木梅太郎が「臨時脚気病調査会」に、オリザニンの報告をしたのは、一九一一年(明治四四)六月。東京化学会で、第一報を発表した六ヵ月あとである。時の、調査会会長は、陸軍医務局長森林太郎、すなわち、森鴎外その人だ(鴎外はこの調査会の提案者でもあった)。  しかし、森鴎外をはじめとして、当時のわが国の医学界の主だった学者たちは、この鈴木の提案を、まったく、かえりみていない。  鈴木自身の述懐〔注12〕を再び引用してみよう。 「当時、医界の大立者であった某博士は」、オリザニンが脚気に効力ありとする、鈴木の報告を伝え聞いて、新聞記者に対し「そんなことはあるまい。いわしの頭も信心から……」の類《たぐい》だと答えたという。  鈴木は、その相手の名前を伏せている。が、ここでいう「医界の大立者の某博士」とは、青山胤通《たねみち》(一八五九〜一九一七)を指している。それは、もうひとつ別の証言によって確認することができる〔注13〕。青山胤通は、当時の東大医学部長(医科大学長)であり、第三内科の教授である。  青山教授は、その前後に、鈴木梅太郎自身に面と向かって、こうもいっている。 「君が脚気の原因を発見したことを、他から聞いたが、それは恐らく間違いであろうと、答えてやった……」〔注12〕  これはまさに、面罵《めんば》にも等しい応対ではないか(青山胤通は、赤痢菌の発見者志賀潔に対しても、別のことがらで、公開の席上、もっとひどい面罵をしている)。  青山胤通は、その当時、実験によって、オリザニンの無効を確かめた上で、鈴木にこう答えたのではない。オリザニンについては、何の実験もやらないでいて、「それは恐らく間違いであろう」と答えているのである。  臨床医の大御所《おおごしよ》として、彼が多くの脚気患者を診《み》てきたのは、確かである。また森林太郎の親友として、「脚気病調査会」の発起人でもあり、中心人物でもあった。  そんな臨床医の大御所として、青山はおそらくこういいたかったのであろう。 “医者でもなく、脚気という病気を熟知してもおらぬ農学者に、脚気の原因が、そう簡単にわかってたまるか——”。  そのころ鈴木は、直接、病院の臨床医にも試験を頼んでいる。 「初め、泉橋《いずみばし》病院の某医学士にオリザニンを送って……」少数の脚気患者に投薬してもらった。その結果、一人の通院患者は「三日で軽快」、その後は来院しなくなった。さらに他の重症患者に数日間、投与したところ非常に軽快になって……退院した。 「これはおそらくオリザニンの効果によるものと思われるが……」と某医学士は鈴木に報告する。しかし「脚気は他の療法によっても治癒するので」この限りでは「これが特効薬とはいえない」。この某医学士からの回答の結びは、これ以上の「継続試験は(病院の)主任が許可しないから、お断りする」というものだった。  ここで鈴木が、臨床試験を依頼した「泉橋《いずみばし》病院」とは、正しくは「和泉《いずみ》橋《ばし》病院」のことだと、思われる。それだとしたら、これは、そのころの東大医学部の第二(付属)病院であった。  鈴木は、このほかにも同郷の縁を頼って、ある開業医に、臨床試験を頼むのである。が、これもまた断わられている。  青山胤通や森鴎外たちは、何故にオリザニンを問題にしなかったのか——。 医学界主流の考え方は……  明治末期に至るまで、わが国の医学界での、脚気に対する主流的な考え方は、細菌説であった。つまり、脚気は、何らかの細菌による伝染病であろう——という見方である。それは、ドイツから来て、日本の医学教育の基礎を築いたベルツやショイベらに始まる見解でもあった。  すでにのべたように、緒方正規(東大・衛生学教授)は、この流れに沿って、“バチルレン”なる「脚気菌」を発見したと、一八八五年(明治一八)に報告している。しかし、これは北里柴三郎によって、実験的に否定されている。だが、“バチルレン”なる細菌がまちがいであったとしても、脚気はそれでもなお、何らかの細菌による病気——というのが、東大医学部の、いわゆる正統派の思想であった。あるいは、それが当時の医学者の間での主流の見解、というべきであった。 「臨時脚気病調査会」が発足する一九〇八年六月には、コッホが、ドイツから来日する。そのコッホも脚気細菌説を強く支持している。コッホの歓迎パーティで北里柴三郎、青山、森の三人は、このコッホの見解に同調している。  脚気細菌説についで、脚気中毒説という見方も提出されていた。エイクマンら、バタビアのオランダ人研究者たちは、この線であった。わが国では、三浦守治(東大・病理学教授)が、青魚(サバなど)による中毒説を一八八九年(明治二二)に出している。  明治末期に至るまで、医学界の主流にある人々にとって、脚気細菌説ではないとしても、せいぜい中毒説までが思考の限界であった。  新しい栄養素の欠損にもとづく、人間の疾患が存在する——などという見解は、少なくとも医学者の間では、未だ奇想天外というべきものであった。  だから青山胤通の内科の医局では、脚気とヌカとの関連を口にすることすら、“絶対禁句”であったそうだ。  しかも、その青山は、単なる、東大の一教授、一内科の教授に留まる人物ではない。前後一六年間にわたって、「東大医科の学長(注=現在の学部長)として君臨し、……教授会でも圧倒的勢力を振るい、敢えて異説をとなえる人はなかった……、正に独裁王の観」があった人物である。  蛇足《だそく》かもしれないが、参考までにつけ加えておく。青山に対するこの人物評は、青山を批判する立場から、なされたものではない。『想い出の青山胤通《たねみち》先生』〔注14〕なる追憶記に書かれている人物評である。つまり、青山の弟子筋、青山に親近感を抱く人たちのなかで、是認されている人物評なのである。  当時の東大医学部は、全国の大学の医学部や医専に、教授を送り出す機関であった。だから、東大医学部に“君臨する”ということは、全国の大学の医学部に“君臨する”のにほぼ等しい。  その“独裁王”である青山が、鈴木梅太郎を面罵するに近く、否定している。これでは、「泉橋病院の主任」をはじめ、開業医たちが、こぞってオリザニンの臨床試験を、避けたとしても、ふしぎではない。 北里柴三郎にも、鈴木梅太郎にも抑圧  記憶のよい読者は、すでに想い起こしているかもしれない、この青山胤通なる人物を——。実は、彼はこの本の第一章にすでに登場している。すなわち、北里柴三郎とことごとく対立、一九一四年(大正三)の「伝研騒動」の際には“群疑の的”となった当の人物だ。  今日の時点に立って、歴史を振り返ってみると、青山胤通は、北里柴三郎を抑圧すると同時に、奇《く》しくも鈴木梅太郎を抑圧する側にも立っていたことになる。これは期せずしてそうなったのか、当然の論理として、そうなるのか——。  一九一四年(大正三)という年は、伝染病研究所を追い出された北里にとっても、受難の年であった。  他方、鈴木梅太郎と、オリザニンと、そして日本社会の脚気病患者にとっても、この年は、受難を決定づけた年であった。  というのは、この年の医学会総会において、鳥類の白米病(多発性神経症)と、人間の脚気症とは、まったく別種の病気であるという“結論”が提出されたからだ。薬理学者で、青山の弟子である林春雄が、この“結論”を出している。  白米病にかかったハトやニワトリなどが治癒しているのであるから、人間の脚気にも、オリザニンは有効だ、というのが鈴木の主張であった。これに対して、林春雄の“結論”は、ほとんど、トドメを刺すに近いものだった。  オリザニンが陽の目をみるまでには、それから、さらに五年の歳月を要したのである。  ヨーロッパでは、この同じ一九一四年に、フンクの、例の著書Die Vitamineが公刊されている。この著書の中で、彼、フンクは、ビタミン学説の概略の体系を提示する。すなわち、ビタミンとは単一の化学物質ではなく、多元性のものである。さらに壊血《かいけつ》病や、くる病〔注15〕も、脚気と同様な、何らかのビタミン欠乏症であろうと、彼は示唆した。  これを受けるようにして、同じ年、ベルリンではモスコウスキ(Moszkowski)が、みずからの人体実験によって、ビタミンの欠乏が、脚気症状を起こしたと発表。さらに、ヌカの浸出液を服用することによって、それが治癒できたと報告する〔注16〕。  他方、一九一四年から一八年にかけての第一次大戦は、ヨーロッパ各地に、動乱と食糧難をもたらした。その結果、壊血病とくる病とが多発し、それがきっかけになって、ビタミン研究の気運が急速に展開するのである。 島薗《しまぞの》—大森による再評価  こうしたヨーロッパの学界での動向を、もっとも鋭敏に察知していたのが、わが国では島薗順次郎(一八七七〜一九三七)であった。  当時、彼は岡山医専の教授である。鈴木梅太郎よりは三つ若い。岡山から京大教授(内科)に転じて間もなく、一九一七年(大正六)、まず、米ヌカからオリザニン液をみずから精製し、脚気患者に投与して好成績を得る。ついで、一九一九年(大正八)、京都で開かれた日本内科学会総会で、脚気症はビタミン欠乏に起因するとの調査結果を提出する。  一九一七年というと、青山が世を去った年である。青山はこの最後の年になって、ようやく医学部長のポストを辞している。島薗自身も東大医学部(三浦内科)の出身であった。  青山が死んで、その統制力と、影響力がなくなったことと、島薗がオリザニンの人体実験をとりあげることとが、奇《く》しくも同じ一九一七年に起きている。  これらは相互に、まったく無関係であったのだろうか?  青山がなお生存していて、日本内科学会に、影響力をもっていたとしたら、おそらく一九一九年(大正八)の内科学会総会で、脚気がビタミン欠乏症だと発表するのは、もっとためらわれたであろう。実際、この総会での、島薗の報告はきわめて慎重である。 「いまだ断定するにはいたらないが……」と。  ともあれ、脚気とビタミン欠乏説、そしてオリザニンの有効性に、突破口を開いたのは、一九一九年の、この島薗報告であった。  慎重な島薗論文を乗り越えて、もう一歩、突っこんだのが大森憲太らによる、本格的な人体実験である。それは一九二一年(大正一〇)、北里柴三郎が学部長である慶応・医学部の内科で行なわれたものであった。  大森は、自分自身を含む、九人を対象として一四日から、四〇日にわたる臨床実験をやる。ビタミン欠乏食によって、脚気の発症、増悪、そしてオリザニンの投与、快癒という一連の実験を試みたのであった。  島薗と大森による、これらの報告は、かつて一九一四年、林春雄によって提出された、“結論”を完全にくつがえすものだった。全国各地の大学でも追試が行なわれた。一九二四年(大正一三)、「臨時脚気病調査会」も、脚気ビタミン欠乏説を承認。幕を閉じる。  この歴史を、結果論としてのみ断定するならば、国をあげての大がかりな「臨時脚気病調査会」は、脚気病の解明にはほとんど役に立っていない。青山胤通も、森林太郎も、脚気病の解明を遅らせることにのみ尽力したといわねばなるまい。  鈴木梅太郎の仕事が承認されて、ようやく学士院賞を受けるのは、一九二四年(大正一三)、オリザニン発見の年から数えると、一四年もあとのことである。  青山胤通は七年前に死んでいる。森林太郎(鴎外)も二年前に世を去って、すでにいない。  北里に対しても、鈴木に対しても、創造を抑圧する側に回った人物として、青山胤通は、われわれにとって、きわめて興味深い対象である。彼と、その周辺にある組織はどのような思考と論理によって動かされていたか——。  その検討は、次の章で改めて試みたい。  それをさておき、ここでは、足早に、鈴木梅太郎の生い立ちと生涯とに、筆を進めよう。 御前崎《おまえざき》に生まれて、十五歳で家出  鈴木梅太郎の出身地は、静岡県の御前崎である。一八七四年(明治七)、その近くの堀野新田に生まれている。現在は、榛原《はいばら》郡相良《さがら》町の一部であり、砂丘の多い農村であった。隣の浜岡には、今は原子力発電所が建っている。原子力発電所が建つぐらいだから、このあたり一帯は今もって、不便な土地である。もよりの東海道線の駅から二〇キロメートルも離れている。明治のころといえば、今よりはずっと、辺ぴな片田舎であった。  そんな寒村での五指に数えられる自作農の家に彼は生まれる。姉妹を加えて五人きょうだいの次男であった。  米倉《こめぐら》を転用したような村の小学校で学ぶ。成績は良かった。  卒業後、近所の私塾を二つ遍歴する。東泉寺塾と、東遠義塾である。寺小屋とも若衆宿《わかしゆうやど》とも呼びたい私塾であった。そこで年少の、情熱的な教師に恵まれる。  東遠義塾は、遠州の東部の意であり、地名を表わしている。一方、「義塾」の名が示すように、それは慶応義塾の流れを汲《く》む私塾であった。東京の福澤諭吉のもとで、「学問のすすめ」やら、「一身の独立」やらを、じかに吹きこまれてきたばかりの青年——それも二十歳そこそこの青年が、一人、二人、この郷里に帰っていた。そんな青年たちが、近郷の子弟を教える塾であった。何を教えていたのか——。  まず、今日の中学程度の教育ではあるが、そのレベルがさして高かったとは、思えない。むしろ文明開化へのなまな憧れと、そこへたどりつく手段としての「学問」への志《こころざし》、そっちの方が熱っぽく語られたのではあるまいか。  おそらく、その影響であろう。この時期の、こんな貧しい私塾から、のちの日本を代表するような人物が、何人か輩出するのである。鈴木梅太郎もその一人であった。  一八八八年(明治二一)の初夏、この塾で学ぶ十五歳前後の少年たち三人が、あいついで家出をする。東京に出て苦学をしてでも大学に進もうと、語らったのである。東京に出るとはいっても、東海道線は未だ走っていない。鈴木は静岡—沼津—箱根—小田原を五日をかけて歩き通している。小田原の先の国府津《こうづ》からが、ようやく汽車の旅であった。  家を出る際、彼は八円を無断で持ち出している。葉茶の売り上げ代金であった。  家出を知った、寒村の親たちは、少年の志《こころざし》をしぶしぶながら認めている。学問をつけて身を立てる方が、辺地の農村で一生を埋もらせるよりは……と考え直したのであろう。現金収入の乏しい家計から、年間一〇〇円弱を学資として、その後割《さ》いてくれる。 二十三歳で東大卒。大学院では鉱毒とクワの研究  神田の予備校に通ったのち、鈴木が東京帝国大学農科大学(農学部)に合格するのは、一八八九年(明治二二)である。当時の農科大学は、予科と本科とを通じて、合計六年。卒業は一八九六年(明治二九)。二十三歳、首席での卒業であった。そのまま大学院に残る。  助教授になるのが二十七歳、農学博士を受けるのが二十八歳。一九〇一年(明治三四)であった。この年、辰野須磨子(十八歳)と結婚している。明治の西洋建築の草わけ、辰野金吾の娘である。辰野は、いまの東京駅の設計者として知られているが、そのころは、東大の建築の教授であった。  大学院時代、鈴木は二つの仕事を手がけている。ひとつは、足尾銅山の鉱毒の調査だ。銅山からの排水が河川を汚《よご》して、下流の農民は深刻な被害を受けていた。鈴木は、汚染した川の水を分析して、農民側の主張の正当性を裏づける。  これと並行しながら、クワの萎縮病の原因を解明する。彼の博士論文となる仕事であった。  絹は、その当時、輸出の花形である。当然、絹を作るための養蚕は、重要な産業であった。ところが、カイコの飼料であるクワが萎縮して育たない。これがクワの萎縮病である。現在の金に換算すると一〇〇億円を越える被害が続出していた。  結論からいえば、これはクワの一種の栄養不良であった。クワの根や、クワの葉に貯蔵される澱粉と蛋白質の分布を、彼は、綿密に調査した。そして酸化酵素系の異常が、クワの栄養不良を起こすことをつきとめる。  こうした着実な研究成果を背負って、彼はヨーロッパ留学に赴く。一九〇一年(明治三四)の秋であった。 ヨーロッパ留学では  このとき、ヨーロッパのだれに学ぶべきかを、鈴木はあらかじめ決めていない。  ヨーロッパに着いてからも、最初の一年七ヵ月は、スイスのチューリッヒで、いささか悠然と日を送っている。そこの高等工業学校で、研究というよりは、ドイツ語を学ぶことと、日常生活に慣れることに時間を割《さ》いている。ヨーロッパのどこの大学の、だれに師事すべきかを、ここに腰を据《す》えて探索していたようでもある。  だから、ベルリン大学のエミール・フィッシャー教授のところに入門するのは、ようやく一九〇三年の秋になってからだ。  糖類の化学構造の解明と、プリン属化学の解明によって、フィッシヤーは、一九〇二年、ノーベル化学賞(第二回)を受けている。鈴木がチューリッヒに在るころには、フィッシャーは、その次のテーマとして、蛋白質とアミノ酸の研究にとりかかるところであった。  クワの萎縮病の研究で、蛋白質や酵素をとり扱ってきた鈴木にとって、ベルリンのフィッシャーのところは格好な研究の場と映ったようだ。  一九〇四年から五年にかけて、すなわち、日露戦争の時代を、鈴木はこのフィッシャーのもとで過ごす。わずか二年ばかりの間ではあった。しかし、アミノ酸から何種類ものペプチドを合成する仕事で、この間に彼は、ヨーロッパでもかなり知られる生化学者に成長していく。  ヨーロッパ留学のころ、鈴木は、しばしば長い旅をしている。  スイスとドイツは、そこに滞在していたのだから当然としても、イタリア、オーストリア、オランダ、ベルギー、フランス、イギリス——。ハンガリーとかルーマニアなど、ヨーロッパの農業地帯へも足を伸ばしている。そこで、大規模農場をみたり、製糖工場、アルコール工場などを訪ねている。これは彼が単なる化学者ではなく、農学部の出身であったことと、無縁ではない。  深く掘り下げる思考を、ベルリンのフィッシャーの許で、身につけ、スケールの大きな問題意識を、ヨーロッパ各地への旅のなかから培《つちか》ったのであろう。  極東の新興国として、日本固有の研究テーマは何か——米の蛋白質と、日本人の栄養の問題を——、そんな想いを胸に秘めて、鈴木が帰国するのは、一九〇六年(明治三九)の二月末であった。 サルチル酸の国産化にも貢献  そして、それから四年後の一九一〇年(明治四三)の暮、米ヌカの有効成分を抽出し、オリザニンと命名する。彼は三十七歳になっている。それから約一〇年間の“受難”の歳月については、すでにくわしくのべた。  オリザニンの脚気への有効性がようやく立証されて、一九二四年(大正一三)、帝国学士院賞を受ける。この年、農芸化学会を創設し、その会長になる。  オリザニンが未だ陽の目を見ない間、約一〇年を彼は何をやって過ごしたのか?  この間、社会的に、大きなでき事は、第一次世界大戦(一九一四〜一八年)である。戦争が始まると、ドイツからの工業製品の輸入が途絶した。従来、ドイツに頼っていた医薬品の国産化が、にわかに求められるようになる。  この期に、鈴木はサルチル酸の国産化と、サルバルサンの国産化とを、立て続けに成功させている。  サルチル酸は、もっぱら日本酒の防腐剤として使われていた。この輸入途絶は、清酒業界だけではなく、酒税をとり立てる大蔵省にとっても深刻な打撃であった。鈴木は、新興の製薬会社、三共と組んで、この国産技術を確立させている。製造工程の最終段階に当たる昇華装置を、布張りにするという、鈴木のアイデアが成功に導いたようだ。一年足らずの間に、清酒一八万トン分の防腐剤(サルチル酸)を供給できる工場が、完成する。 サルバルサンではまたも「冷罵《れいば》」を  他方サルバルサンは、梅毒の特効薬だ。北里柴三郎の弟子、秦佐八郎《はたさはちろう》が、ドイツ留学中、エールリッヒの指導のもと、一九〇九年(明治四二)に発見した薬である。化学療法の扉を最初に開いた薬として、歴史的にも高く評価されるものだ。しかし、砒素《ひそ》を含む劇薬である。この当時、わが国では未だ国産化されていなかった。  その国産化を、東大でやってみないかという提案を、鈴木は、山川健次郎総長に出している。山川はこれを東大の特別会計にして、収入を得ようと政府筋に働きかける。しかし、何らかの事情によって、この線は立ち消えとなる。そして、何らかの事情によって、同じ東大でも伝染病研究所の方で、この国産化が運ばれている。一九一五年(大正四)のことだ。  伝研はその前年、例の大騒動で、内務省から、東大の方へ移管されたばかりである。北里柴三郎は追い出され、新しく伝研の所長は、青山胤通《たねみち》医学部長が兼ねていた。  結局、鈴木は東大での国産化の提案者でありながら、部内では外《はず》された格好になる。彼は再び、三共と組む。  またもや東大医学部の側から、「冷罵」が浴びせられる。 「鈴木は学商である。もうかるとなると、百姓学者のくせに、梅毒の薬まで作る」——と〔注17〕。  しかし、それでも、結局は、この鈴木が、わが国でのサルバルサン製造の先鞭《せんべん》をつけたのである。 (参考までに、追記する。鈴木は後年、大正末期から昭和の初めにかけて私立東京農業大学の創設に当たって、一万円、東大農学部へ実験室一棟、さらに東大へ一〇万円の奨学金などを寄贈している。その当時の一万円は、たぶん、今日の一五〇〇万円程度には相当しよう)。 理研では……  一九一七年(大正六)には、理化学研究所が創設される。鈴木は東大を兼任のまま、この理研の主任研究員となる。四十四歳になっていた。  一九一七年から一九三五年(昭和一〇)あたりにかけて、理研の鈴木研究室の周辺からは、いくつもの大きな成果が続出する。まずは合成酒の開発、ついでビタミンAとビタミンCの抽出、さらには新しい殺虫剤や農薬の開発——などである。  理研の主任研究員を兼任するようになって、鈴木自身がまずとりかかったのは、合成酒の仕事であった。主食である米を原料としないで、他の原料から、日本酒と同じような醸造酒を合成しようとする試みだ。当時、約四五万トンの米が、日本酒の原料になっていた。今とは違って、そのころの稲作技術では、国内での米の自給自足が覚《おぼ》つかなかった。  酒の原料に四五万トンもの米を費《ついや》すのなら、主食に回すべきだ——というのが鈴木の主張である。  合成酒の工業化は、日本全体が戦争経済に傾き、米の統制が厳しくなるにつれて普及していった。昭和に入って、満州事変(一九三一)、日中戦争(一九三七)と、日本軍が中国大陸に進出するとともに、大陸の占領地に、合成酒(「理研酒」)の工場がつくられた。その特許は、一九三五年(昭和一〇)には、数十社の酒造業者によって実施されている。日米開戦の一九四一年(昭和一六)には、約七万トン、第二次大戦後も食糧難の時代には、一二万トンを越す合成酒が生産されていた。 (もっとも、その後、米の生産過剰とともに、日本酒の合成はみられなくなった)。  ビタミンAと、ビタミンCの抽出は、いずれも鈴木の弟子たちによる業績である。学問的にも高く評価されるものであったが、経済的にも、理研全体を大きく潤《うるお》したものだった。  高橋克己がやった仕事——すなわち、魚のタラの肝臓からビタミンAを抽出するという研究は、一九二七年(昭和二)には、年間一〇〇万円の収入を理研にもたらしている。今日の貨幣価値でいえば約一五億円に相当しよう。  鈴木自身は、一九二六年(大正一五)、帝国発明協会の恩賜記念賞を受ける。これもオリザニンに対する評価であった。  翌一九二七年(昭和二)、「ビタミン」の題で、天皇にご進講。その四年あとの一九三一年(昭和六)にも、再度、ご進講する。その時の題は、彼の師、「エミール・フィッシャーの業績と生涯」というものだった。  翌一九三二年には、ドイツ学士院会員に加えられる。五十九歳だった。  鈴木の公職として、最後のものは、満州国大陸科学院の院長である。一九三七年(昭和一二)、六十四歳の時から四年間、この任についている。一年の半分を新京(現在の長春《チヤンチユン》)で過ごす生活であった。一九四三年(昭和一八)の四月、文化勲章(第七回)を受け、その年の九月二〇日死去する。ちょうど七十歳であった。 大きなもの、そして小さなもの  池田菊苗と同じく、鈴木梅太郎も体系だった「論」を展開するタイプではない。長岡半太郎のように、研究とは、研究組織とは、いかにあるべきか——などという議論も、彼の著作には残っていない。鈴木自身が夢や展望に欠けていたとは考えられないのであるが、それを体系立って主張するタイプではなかったようだ。  彼が弟子たちに贈ったことばとして、印象深いのは次のようなものである。 "Was Gr嘖ser ist nicht immer Gross Was Kleiner ist nicht immer Klein" (大きなものが、常に 大きいのではない。  小さなものが、常に 小さいのではない)  創造という営みは、多かれ少なかれ、既成の体制への批判であり、反逆である。創造の小さな芽と、既成の体制の抑圧の重さと——その両者の相克が、痛く感じられることばではないか。 〔注1〕ビタミンと、ビタミンB群と、ビタミン(オリザニン)の構造 「ビタミン」とは、一般に微量で、動物の栄養を支配する働きをもつ有機化合物。しかも、体内ではつくられないために、外界から摂取しなければならない栄養素。他方、蛋白質、脂肪、炭水化物、などはもっぱらエネルギーを供給したり、体組織を構成するのに使われる栄養素である。これに対して、ビタミンは、前記の栄養素が体内で利用されるときの、補酵素となったり、骨、間質細胞、粘膜組織の形成、抗酸化作用などに関与する微量栄養素である。    ビタミンは単一の物質ではなく、脂溶性のもの、水溶性のものなど、二〇種近く存在する。ビタミンA、D、E、Kなどは脂溶性であり、B群とC群とは水溶性である。    ビタミンB群には、、、ニコチン酸、パントテン酸など約一〇種類が存在する。    鈴木梅太郎が発見した「オリザニン」は、のちにビタミンとされた。これがすべてのビタミン群の中で、最初に見出されたものである。 〔注2〕Casimir Funk, 1884〜1967 ポーランド出身、スイスのベルン大学で博士号を取得。パリのパスツール研究所を経て、ベルリン大学のエミール・フィッシャー研究室で、一九〇八年(明治四一)から二年間、研究に従う。この当時から、微量の新栄養素群の存在を予感。その研究を希望したが、実験主任がその意義を認めず、フンクはイギリス・ロンドンのリスター研究所へ転ずる。そこで鈴木梅太郎の研究抄録と、酷似の研究を一九一一年、発表する。    一九一四年(大正三)、著書"Die Vitamine"をドイツから出版。翌一五年、アメリカに渡り、製薬会社やコロンビア大学で研究。その後、祖国ポーランドやフランスでも研究生活を送る。第二次大戦によって再びアメリカへ移住。彼の生涯は生化学の研究実績を武器として、欧米各国を転々と渡って歩いた一生であった。一九六七年、アメリカで死去。八十三歳。 〔注3〕Emil Fischer, 1852〜1919 ドイツの有機化学者。一九〇二年、ノーベル賞(化学部門)を受賞。アニリン色素の構造を解明。インジゴの構造式を証明。糖類の合成と、その立体配置を定め、糖の化学を大成した。そのあと、蛋白質の研究に移り、種々のアミノ酸から、数多くのポリペプチドを合成した。 〔注4〕ポリペプチド 同種のアミノ酸、または異種のアミノ酸が結合した化合物を「ペプチド」と呼ぶ。ペプチドを構成するアミノ酸の数の多少によって、多種類のペプチドができ、それらを総括して、「ポリペプチド」と呼ぶ。蛋白質はこのポリペプチドが、さらに長くつらなって構成している。 〔注5〕Christian Eijkman, 1858〜1930 オランダの医学者。ペーケルハーリングの助手として、オランダ政府からインドネシア、マレー群島に派遣される。脚気の研究に従事、バタビアの陸軍病院の小さな研究室で「ニワトリの白米病」を発見。食事欠陥性疾病が存在することを世界ではじめて実証した。 〔注6〕本書第一章の北里柴三郎の項を参照。 〔注7〕Frederick G. Hopkins, 1861〜1947 イギリスの生化学者。一九〇一年、蛋白の酵素水解物からトリプトファンを単離。一九〇六年、Analyst誌に牛乳中に含まれる副栄養素説を発表。のちのビタミン発見を予想する。筋肉収縮時の乳酸蓄積を証明。のちにビタミンAが分解して、AとDとに分離する基礎を解明した。 〔注8〕ニコチン酸 ビタミンB群のひとつ。これが欠乏すると「ペラグラ症」になる。「ペラグラ症」とは、トウモロコシを常食とする人々の間に発生する、皮膚、粘膜、消化器、神経系の障害。 〔注9〕フンク自身、一九〇八年から二年間、ベルリン大学のフィッシャーの研究室にいるころから、微量の新栄養素の存在を、確信していたようだ。その主張が、実験主任アブデルハルデンに聞き容れられず、仕方なくイギリスのリスター研究所へ移っている。それくらい強い主張をもっていたフンクであるから、あるいは鈴木とは独自に、ほとんど同じころに、同じ研究成果に到達していたのかもしれない。    また、フンクの“発見した”とする「ニコチン酸」にしても、鈴木の「アベリ酸」=「オリザニン」にしても、第一報の段階では、純粋の結晶として、抽出されたものではない。それだけに、「有効成分」ではあっても、夾雑物の、まだかなり混じった、本当は、正体不明の化学物質だ。したがって、フンクのいう「有効成分」は、「ニコチン酸」だけではなく、その近辺の、他の「有効成分」が、混在していた可能性もじゅうぶんに考えられる。だから、本当に有効だったのは、「ニコチン酸」以外の夾雑物のほうだったかもしれない。    他方、鈴木の最初の論文や、ドイツ文の「抄録」に示されている「有効物質」は、「アベリ酸(Aberi S隔re)」と表現されている。すなわち、鈴木はこの有効物質を最初「酸」の一種と考えていたのである。ところが、あとになって判明するように、ビタミンは、「アミン」(アンモニアの水素原子を炭化水素基で置換した化合物)の一種であって、「酸」ではない。その誤りを、鈴木自身、すぐに気がついていたからであろう。ごく初期の論文を除けば、「アベリ酸」という名称は早々と、引っこめてしまっている。    これに対して、フンクのほうは、彼の抽出した有効成分に、終始、「ビタミン」と名づけている。    これは、Vital-Amine(生命にかかわる「アミン」)の意味である。すなわち、フンクはみずから抽出したばかりの未だ正体不明の有効物質が「アミン」の一種であることを感知していた。フンクの論文に示された通りに追試してみると、そこで抽出される化学物質の大部分は、「ニコチン酸」であるかもしれない。しかし、フンクが最初に抽出したときには、それが「ニコチン酸」か何かは、未だわかってはいない。かなりの夾雑物を未だ含んだ「有効物質」が、ともかくとり出せた——というだけの話である。その段階で、フンクはどうもアミンらしい……とにらんだからこそ「ビタミン」なる命名をしたのではないか。そうだとしたら、フンクの論文は、鈴木の抄録からの「盗用」などではなかったかもしれない。    しかし、いずれにしても、歴史的事実の問題として追求してみるならば、鈴木梅太郎の「有効物質」(最初「アベリ酸」、まもなく「オリザニン」)が、最初であって、フンクの「有効物質」は、二番目の仕事である。そのことは、明らかである。そして脚気症に効くのが、「オリザニン」であり、ビタミンが「オリザニン」であること——これは今日、もはや動かせない事実である。 〔注10〕フンクは、一九二六年『サイエンス』誌に、「だれがビタミンを発見したのか?」という小文を発表して、ホプキンスに抗議している。しかし、ここでもフンクは鈴木のプライオリティには触れないですませている(『ノーベル賞の光と影』二〇一〜二一二ページ参照。朝日新聞刊。一九八七年)。 〔注11〕山極勝三郎(一八六三〜一九三〇)、東大医学部生理学教室の第二代教授。 〔注12〕鈴木梅太郎著『ビタミン』(日本評論社、一九四三年刊) 〔注13〕鈴木の弟子で、オリザニンの動物実験を担当した大関竹三郎の回想による。(『鈴木梅太郎先生伝』一五一ページ) 〔注14〕熊谷謙二編、青山先生生誕百年祭準備委員会、一九五九年刊。 〔注15〕壊血病はビタミンCの欠乏症。くる病はビタミンDの欠乏症。 〔注16〕あとになって、わが国の島薗《しまぞの》順次郎教授=京大・内科=は、このモスコウスキの実験で発症したのが、脚気であったかどうかは、疑わしいと指摘している。脚気は、ヨーロッパでは、ほとんどみられない病気である。このため、脚気症状そのものの同定が、ヨーロッパの医学者には不じゅうぶんであったからだ。 〔注17〕『鈴木梅太郎先生伝』(一七八ページ) 第七章 創造活動に対する抑圧とは何であったか? 抑圧側の人物——青山胤通について タテ型社会の原型 イエの構造——四つの組織原理 科学者の創造とつき合わせてみると 第二の設問に関する検討として  北里柴三郎にはじまり鈴木梅太郎で終る五人の明治の科学者像は、第一章から第六章までで紹介し終った。  ここで改めて、もう一度この本の冒頭——序章で提示した二つの設問を、整理しておきたい。  私の投げかけた設問は、二つあった。  第一の問いは、  日本人には科学技術の創造性が、果たしてなかったのか——ということである。  第二の問いは、  日本人の創造性の発現を、抑圧してきた、社会的な制約、時代的な制約は何であったか——。  第一の設問に対して、明治の五人の代表的科学者を紹介する形で、私は、読者自身に検討を乞うたのである。  もちろん、この五人だけが、すべてではない。この時代、早くも世界に貢献した科学者は外にもいる。  今ただちに想い起こすだけでも、もっといる。植物学者の平瀬作五郎、池野成一郎。天文学者の木村栄。医学者には志賀潔、秦《はた》佐八郎、野口英世。物理学者なら本多光太郎、数学者の高木貞治〔以上の業績は注1参照〕——などなど。  だが、それらは、とりあえず残しておく。まずは五人の科学者像に関し、基礎データを提供してみたのである。  この問題を考える場合の評価尺度として、各国の人口と、ノーベル賞学者の数との比率を此べてみるというような尺度もある。それもひとつの評価であろう。  しかし、それと同時に、過去の自分の国にあった創造の仕事を、しっかりと認識し直してみることも、ひとつの評価の方法ではあるまいか。  そんな歴史的評価のモノサシを当ててみるならば、日本人に科学技術の創造性が乏しいとは、いいがたいように私は思う。乏しいと断定するには、あまりにも多くの反証があり過ぎると、思うのである。  だとしたら、具体的な根拠の乏しい印象批評にまどわされるよりは、日本人の創造活動を抑圧してきた因子が何であるかを見きわめるほうが、建設的ではないか。  そこで、第七章と第八章とでは、第二の設問に関する検討からとりかかることにしたい。 青山胤通《たねみち》個人を略年誌風に  すでに紹介ずみの五人の科学者のうち、その二人までに対して、まちがいなく抑圧側に回った人物がいる。青山胤通である。  森鴎外もそうであった。これはむしろ、青山を頂点とする東大医学部(医科大学)グループと、いい直すべきかもしれない。  青山らが北里柴三郎に対する“敵役《かたきやく》”であったという事実は、すでにかなりよく知られているところであった。しかし、その同じ青山のグループが、鈴木梅太郎のオリザニンに対しても、抑圧の側にあった。この事実は、北里の場合ほどは知られていない。  ただ、だからといって、このような抑圧を、青山胤通個人の、人格(人間性《パーソナリテイ》)のせいにしようと、私は考えてはいない。  むしろ、青山らのグループがそんな役割を演ずるには、それなりの論理があった。ある集団の思考論理があったのではないかと私は考えたい。かつまた、それなりの時代の背景があったのだとも、思う。それらが何であったか——。そこのところを解明してみたいのである。  しかし、ともあれ、まずは青山胤通個人と、その周辺を、略年誌風に説明せねばなるまい。  青山胤通(一八五九〜一九一七)と北里柴三郎とは、ほとんど同世代といってよい。森鴎外とも、ほぼ同世代である。青山と鴎外とは終生、親交があった。  一八五九年(安政六)、青山は江戸・麻布《あざぶ》で生まれる。美濃・苗木藩の藩士の息子として、その江戸下屋敷で生まれたのである。美濃・苗木というのは、現在の岐阜県中津川市のあたりで、幕末には国学の盛んな土地柄だった。  青山胤通自身、少年期、京都の国学者、平田延胤《のぶたね》(平田篤胤《あつたね》の子孫)の養子に出されている。ほどなく、実の親の許《もと》に復縁するのではあるが、胤通《たねみち》という彼の名は、そんな国学の背景を物語るものだ。  明治維新の年は、十歳。  一八八二年(明治一五)、二十四歳で(東大)医科大学を卒業。北里よりは、一年先輩に当たる。そのまま、ベルツ教授の助手となって、大学に残る。いわゆる教授候補者である。翌年から四年四ヵ月、ヨーロッパへ留学。ベルリン大学のウイルヒョウ教授に病理解剖学などを学ぶ。一八八七年(明治二〇)帰国して、東大・内科教授になる。日本人として、最初期の教授の一人だ。  一八九二年(明治二五)には、北里がベルリンから帰って来る。北里は福澤諭吉、長与専斎らの後援を得て、「私立伝染病研究所」を創設。あくる年、これに国庫補助を出そうという議員提案が国会に出される。この同じ国会に文部省、東大医学部からは、「国立伝染病研究所創設案」が提案される。「国立」が敗けて「私立」の方が認められる。青山は、このときの帝国大学衛生委員であり、医科大学医院長でもあった(第一章参照)。  一八九四年(明治二七)、ホンコンでペストが大流行する。その調査のために、政府の命を受けて現地に出張する。北里柴三郎もこの調査団の主要メンバーであった。北里は、この出張期間中に、ペスト菌を発見して、世界の医学界の話題をさらう。青山は、病理解剖と診断をもっぱら担当していた。しかし、彼自身がペストに感染し、生死の境をさまよう。奇蹟的に生還する。  翌一八九五年(明治二八)から、大隈重信の知遇を得て、その“侍医”となる。  一八九八年(明治三一)、民間医による医師会法案が国会に提出されると、青山は反対運動の急先鋒となって、これを廃案に追いこむ。  このとき、後藤新平、長谷川泰、北里柴三郎らは(法定)医師会の創設に賛成し、森鴎外(陸軍軍医)、青山胤通らは反対に回る。大まかにいって、内務省官僚と開業医とは、(法定)医師会の創設に賛成し、大学教授と軍医とが反対に回った。結局、(法定)医師会の創設は、一九一六年(大正五)まで遅れるのであるが、その創設のときには、北里が初代の会長になっている。 医科大学長として一六年間  一九〇一年(明治三四)、青山は医科大学長に選ばれ、それ以降死の直前まで約一六年間、この職に留まる。  当時の東京帝国大学・医科大学長の地位は、今日の医学部長のそれとは、比べものにならないぐらい強大だった。日本全国の医科大学や医専に教授、助教授を送り出す——それが東大の医科大学の役割であったからだ。  一九〇五年(明治三八)、青山は帝国学士院会員になる。  一九〇八年(明治四一)「臨時脚気病調査会」(会長、森林太郎=鴎外=陸軍医務局長)が設立されると、親友、森鴎外を補佐してその委員となる。  一九一〇年(明治四三)、この年の暮に、鈴木梅太郎はオリザニンを抽出。翌年、脚気病調査会へも報告する。  一九一二年(明治四五)、青山は明治天皇の臨終をみとる。  鈴木梅太郎に面と向かって、“オリザニンが脚気の特効薬、との主張は、イワシの頭も信心からの類”と冷笑したのが、このころである。  一九一三年(大正二)、五十五歳。教授在職二五年祝賀会に数百人が参会。ドイツ皇帝からも、第二等の勲章が贈られている。  一九一四年(大正三)、第二次大隈内閣の折、北里柴三郎の伝染病研究所(内務省)は文部省(東大)へ突如として移管。北里ら伝研幹部が総辞職して「伝研騒動」となる。青山は、世上「群疑の的」となる。  この同じ年、青山の弟子で薬学者の林春雄が、日本医学会総会で“人間の脚気症と、他の動物の白米病とは、まったく別の疾患”と断定。これによってオリザニンの人体への有効性は、ほとんど否認されてしまった。  一九一五年(大正四)、青山は移管された東大・伝研の所長を兼任。この年、鈴木梅太郎はサルバルサン(梅毒の特効薬)の国産化に着手。製薬会社・三共と組んで成功させる。ついで、東大伝研も万有製薬と組んで国産化を進める。鈴木は「百姓学者のくせに、金もうけとなると、梅毒の薬までつくる」と、「冷罵」されている。  一九一七年(大正六)暮、青山は食道がんで死去。五十九歳。  このころから、島薗《しまぞの》順次郎(当時、京大内科教授)は米ヌカからオリザニンを自製。脚気患者に投与して好成績を得る。  一九一九年(大正八)、京都で開かれた日本内科学会総会で、島薗は人間の脚気が、ビタミン欠乏症であることを報告。オリザニンの有効性について言及する。 医局の原型を確立  では、この青山があとに遺した業績とは、何であったか。  それを彼にもっとも好意的な立場の人々によって書かれた資料『思い出の青山胤通先生』〔注2〕をもとに検討してみたい。  これによると、彼の最大の業績は、わが国における大学医学部の原型を創り出したこと——といえそうである。  もう少し正確にいうと、大学医学部の中でも特に臨床部門での組織——一般に「医局」と呼ばれる組織——の原型を確立させたことである。それを、まず東大に定着させ、そこから全国の大学医学部へと増殖させていった、のである。  周知のように、明治初年、日本の医学教育の礎は、ドイツからやってきたベルツとか、ショイベといった医学者たちによって築かれている。彼ら“お雇い外国人教師たち”は、やがて、若手の日本人の教授たちに、とって替わられていく。  日本で最初の大学、そして当時、日本唯一の国立大学であった東大の、医科大学では、この入れ替えが明治二〇年代に始まっている。一八八九年(明治二二)、洋行帰りの内科教授、青山(当時三十一歳)は、同志とともに、医科大学改革運動を起こす。そのころの医科大学は、さながらドイツ人の「コロニー(植民地)」だったという。その状態から、日本人教授が主導権を握る「独立」を獲得しようとしたのである。  この改革は成功した。しかし、「独立」には成功したものの、医科大学の内外では、そのあと十余年間、ゴタゴタが絶えない。責任者の大学長が、この間四人も交替している。実験用のネズミが逃げ出して、ペスト菌を大学構内にまき散らしたり、教室が火事になったり——。  つまり、ドイツ人教師たちから独立はしたものの、日本人の学者の側には、未だ、みずから管理していける能力や体制が整っていなかったのである。今日でも開発途上国ではよくみかける状況だ。  しかし、一九〇一年(明治三四)になって、青山(当時四十三歳)が大学長に座ってからは、こうしたトラブルがしだいに納まっていく。彼の優れた統御能力、管理能力の故であった。 魁偉《かいい》の……独裁王として  彼が五十五歳になった一九一三年(大正二)、在職二五年祝賀会が開かれた。その席上、当時の東大総長山川健次郎は、青山の「教育行政上の功労」を祝辞として、特に高く評価している。  もっとも、青山の優れた統御能力には、たとえば、以下のような実態も含まれている。  その当時、医科大学の内部では、学生たちによる医局改革の要請が、すでに起こってきていた。古手の医局員の在勤年限を短くして、医局の若返りを……という要請であった。教授陣も、この要請を是としたのであるが、当の医局員たちは反発した。ストライキまがいの辞表提出が、各部の医局であいついだ。青山内科の医局でも、同様だった。  青山教授はこれに激怒して、医局員一同を教授室に招集、どなりつける。このとき、医局員一同は、青山の怒りを恐れて「洋室の床に土下座して、平伏した」のだそうだ。  しかし、それでも当時の弟子の一人は、こうした青山教授を、次のように讃《たた》えている。 「堂々たる体躯、魁偉の容貌、人を射る眼光、軍人なら将軍、文官なら総理大臣を思わせる。どうしても医者のタイプではなかった。……東大医科の学長として君臨し、……教授会でも圧倒的勢力を振るい、敢えて異説をとなえる者もなく……正に独裁王の観があった。……東大医科を磐石の重きをなさしめ、……全国にわたる医科大学創設の基礎を築き、……日本の医学界を造りあげた」——と。  青山とは、同世代であって、ドイツへも同じ時期に留学した、親友森鴎外の人物評はこうであった。 「青山君はStolz(ストルツ)である」。このStolzというドイツ語は、傲然の「傲《ごう》」を意味している。「傲とは必ずしも悪徳ではない。……意気軒昂たる態度である」と、鴎外はいう。つまり、青山は意気軒昂の人というわけだ。 卓越した診断家、新薬嫌い  臨床医としての青山は、「卓越した診断家」であった。その卓越さは、丹念な病理解剖によって裏づけられている。患者が死んだあと綿密な解剖によって、患者の疾患の根源を的確に把握しようとしたのである。それは、ドイツ留学の間、師ウイルヒョウから学んできた手法であった。 「卓越した診断家」ではあったが、青山は患者の治療(投薬)については、あまり深い関心をもたなかった、と伝えられている。投薬は若い医局員の裁量にほとんど任《まか》せていた——という。  ただ「新薬嫌い」ということでは定評があった。患者の生き死にに直接たずさわる臨床医として、やたらに「新薬」にとびつくのも不見識ではあろう。そんな「新薬嫌い」が昂じて、オリザニンの臨床実験の無視につながったのであろうか——。  歯に衣を着せず、はっきりものをいうことでは、先に鈴木梅太郎が面罵された例を紹介した。しかし、この点では、患者に対しても同じだった。  がん患者に向かって「君はもうダメだ」とはっきり宣告していたという。それでいて、自分自身が食道がんになって、死を悟《さと》ったときには、弟子にこういっている。 「病気になった者の気持ちは、健康人には分らない。……希望がなくては人間は一日も生きられない。……医師としては病人を絶望させるようなことは、決していうな、するな」 少なかったアルバイト(業績)  医学者としてみたとき、青山の「アルバイト(業績あるいは論文)」は少ない。  その数少ない「アルバイト」として、青山の「ペスト研究」を、弟子たちや、森鴎外は、高く評価するのである。  ホンコンに出張し、みずからも感染し、生死をかけたペスト研究ではあった。  しかし、彼の研究報告としては、東大医科大学の紀要(三巻二号)にドイツ文で発表されたのが目につくぐらいである。のちに、ドイツの医学出版社から、内科の教科書の一項目として、ペストの項の執筆を依頼されてもいる。しかし、このときに送った原稿はボツになっている(その理由はわからない)。  ペスト菌発見という大きな業績を残した北里に比べると、青山の「ペスト研究」には、後世に残っているものがほとんどない。  学生に対しては、ドイツ語の教科書の講読を強調した。そのあまり、日本語で書かれた医学書は、許されなかった。たまたまある学生が、日本語の『内科診断書』をかかえて、青山教授を訪ねたところ、その本はとりあげられて、窓の外に捨てられている。  その本の内容がお粗末であったのかどうかはわからないが、この本の著者である橋本節斎助教授(三浦内科)は、結局東大では学位がもらえなかった。その後間もなく、大学を去ったそうだ。  今日の大学医学部の原型を築きあげた青山の個人像と、その周辺の状況は、おおよそ以上のようなものであった。 タテ型社会を築く  青山らによって築きあげられた「大学医学部」という、ひとつの集団を今日の時点で、もっとも端的に表現するならば、それは典型的な「タテ型社会」と称されるものであろう。  近代医学をとり扱う、新しい専門家集団の中に、一種の家父長的、官僚的な「タテ型社会」を、青山らは“みごとに”構築した、といってさしつかえあるまい。  このような「タテ型社会」が、東大医学部のそれを原型《プロトタイプ》としながら、全国各地の大学の医学部にみごとに増殖していったのであった。  もっとも、このような「タテ型社会」の構築は、単に東大医学部や、全国の医学部だけに限った現象ではない。  青山とは何の関係もない他の学部、他の研究機関にも、ほぼ同様に、築かれていく。大学や研究機関のみならず、日本社会全般にわたって、やがて広く根を張っていったのである。  明治期にみられる、そのような一般的現象のひとつが、東大医学部や全国の医学界では青山胤通を中心として、展開していったのであった。  ただ、ひとつ指摘しておかねばならない。それはタテ型社会の弊害に対する、認識の問題である。同じ東大教授(学者官僚)ではあっても、物理学者の長岡半太郎には、その弊害に対する鋭い認識があった〔参照一五四ページ以下〕。同じ医学者でも北里柴三郎には、この弊害に対する批判がある〔参照四三ページ〕。そのような批判や認識が、医学者青山胤通や、その周辺には、ほとんど見られないのである。  私は、北里の場合にしろ、鈴木の場合にしろ、彼らの創造活動に対して、抑圧として働いたものは、こうしたタテ型社会であった、と考えている。タテ型社会の意識構造というべきかもしれない。だが、ここでいう「タテ型社会」とは、いったい何なのか。それをもう少しくわしく説明してみなければなるまい。 タテ型社会とは 「タテ型社会」ということばによって、もっとも安易に思い出すのは、中根千枝氏(社会人類学者・東大教授)の著書『タテ社会の人間関係——単一社会の理論』(講談社現代新書、一九六七年刊)であるだろう。この中で、中根氏は、日本社会の特徴が「タテ型構造」であって、その核心に存在するものが、一種の「家父長制」であると、のべている。そして、その「家父長制」が「イエの構造」をしていて、今日わが国の産業社会では、終身雇用、年功序列という雇用構造に、もっともよく現われている——と指摘する。  しかし、この「イエの構造」について、中根氏よりはるかに早く、より的確に解明していたのは、川島武宜《たけよし》氏(法社会学者・東大名誉教授)といわねばならない。彼の著作『日本社会の家族的構成』(日本評論社、一九五〇年刊)は、中根氏よりは一七年も早い仕事であった。  ただ、川島氏の著作は、敗戦後の日本社会の民主化を主題としたものであって、産業社会の人間関係を論じたものではない。そのせいもあって、中根氏の著作ほど、産業界の人々に親しまれるものにはならなかった。しかし、タテ型社会の本質について、より深く掘り下げているのは、やはり川島氏の見解だと、いわねばならない。  その川島氏は、明治以降一種の「家父長制」の組織が、日本社会に根を張っていった状況を、次のように説明する。  明治維新をきっかけとして、近代化に踏み出した日本の社会は、いうまでもなく、封建的遺制を、根強くもっている社会であった。 「典型的な資本主義ではなかった、わが国の経済的、社会的諸条件の下においては、人は何らかのしかたで、他からの庇護《ひご》を求める……。そこでは単純な商品交換的な結合ではなくして、より継続的な人的結合が必然となる。だが、ここでの、この結合をつくる人間は、家族的結合しか知らぬ人間である。彼らは家族的にしか、人の結合関係を意識することはできない。それほどにわが国においては家族生活は、われわれを強くとらえている。彼らは、あるいは家父長的な権力者に頼りたがり、あるいは家父長的権力者になりたがる。(中略)  それによって第二の親子関係、すなわち『親分子分』関係は……必然性をもって作り出される」……。  このような「第二の親子関係」が、農村では、地主—小作人の間の「親方子方」となり、工場労働関係では「企業一家」となる。近代的色彩をもっているはずの、会社や役所や、大学などでは、親分子分的派閥となる。政治の分野でも同様だ……。  日本の社会は、すみずみに至るまで、このような「家父長制」による「家族的構成」をしている。それが明治以降、第二次大戦に至るまでの日本社会の特徴である(日本の社会の真の民主化のためには、これを改革してゆかねばならない)。  ——というのがまずは川島氏の所説である。 四つの組織原理  こうした家父長制社会での「組織原理」なるものを、彼、川島氏は、次の四つにまとめている。  すなわち、第一は「権威」による支配と、権威への無条件的追随。  第二は個人的行動の欠如と、個人的責任感の欠如。  第三は一切の自主的批判、反省をゆるさぬ社会規範。  第四は親分子分的結合の家族的雰囲気とその外に対する敵対意識。  各項について、もう少し具体的な説明を求めると、  第一の原理、すなわち「権威による支配と、権威への無条件的追随」——とは、 「親分の前では自らを価値ひくきものとして意識するところの子分の卑屈な感情と、これに対する親分の『権威』乃至『親心』。親分の権威への追随ということが、子分の行動の絶対的基準」となることを指している。  第二の原理とする「個人的行動の欠如と、それに由来する個人的責任感の欠如」とは、第一の原理と密接に関連しつつ、 「それは生活が、なんらの変化なき、同一事のくりかえしにすぎぬかぎり、かような生活原理は平和と安定とを意味するであろう。しかし、もしあらたな事態、あらたな問題がおこるならば、この生活原理は恐しい危険をはらんでいる。何びとも責任を自覚せず責任ある行動をせず、しかも多数者がこの主体なき雰囲気のままに流れゆくからである。だから、これは実に『停滞』の原理である」と。  第三の原理、自主的批判や反省をゆるさぬ社会規範とは、「ことあげ」を禁ずる社会的な雰囲気を指している。「ことあげ」によって、すなわち、 「反省や批判によって、この絶対主義的乃至なれあい的な家族的秩序や平和が害されるのを恐れるからである。自分の意見をいわぬこと、雰囲気に追随することは、人の下に立つもののみならず人の上に立つものにとっても、忘れてならぬ『処世術』である。このような社会では、自らの個性を発展させることは許されぬしまた不可能」となる。  最後の第四の原理とは、セクショナリズムのことをいっている。 「……会社・役所・学校等々わが国の社会のすみずみにまで滲透しているところの、その下でわれわれが苦しんできたところの、しかしまた同時に他を苦しめたところの、あのセクショナリズムの本体である。それは、はたから見ているとはなはだ困りものに見えるが、その派閥的対立関係に立って抗争している当人にとっては、自分の親分・子分・仲間にとっての人情的重大問題、死活問題、『お家の大事』にほかならないのである。すべてのものが派閥によって対立しあう世界においては、派閥に、しかも有力な派閥に属しないかぎり、そうしてそこで雰囲気にしたがって行動しつつ親分に『目をかけて』もらわないかぎり、『出世』はできない、いなそれのみか、逆に派閥的暴力によってたたきつけられてしまう」——。 科学者像とのつき合わせ  ここに示した川島氏の所説は、青山胤通《たねみち》教授の周辺の状況を説明する場合に、まず、相当、適切に当てはまっている、と私は思う。それだけではなくこの本でとりあげた、科学者たちの具体的事例につきあわせてみても、よく説明がつく。  たとえば、北里と東大医学部との対立抗争はどのようにして起きたか?  それは、緒方正規教授(北里の“師”)の脚気細菌説に対する、北里の“ことあげ(批判)”がきっかけであった。この批判が「師弟の道」にもとるとして許さなかった。北里は、東大医学部という、タテ型社会に入りこむことを拒《こば》まれたのである。そして、彼は、東大医学部というセクショナリズムの「派閥的暴力」によって、終生、痛めつけられる。その“極点”が、伝研騒動であろう。 (もっとも北里自身も、第一の原理「権威への無条件的追随」という点に関しては、相当に徹底したものであった。北里の場合の「権威」は、ドイツでの師、コッホであった。北里はコッホの髪の毛を祭るコッホ神社を、晩年に創設して、師を文字通り神格化している)。  川島氏のいう「第一の原理」での「権威による支配」とは、階層秩序制、もしくは序列意識にも密接につながっている。  また「権威への無条件的追随」とは、別な表現をすれば「事大主義」ということでもある。すなわち、「大きなものは、常に善いことだ」という原理である。それをもう一回、裏返してみると、「権威のないものに向かっては軽蔑と無視」——に、つながっていく。  日本海軍の米麦混食を無視した、陸軍の態度と方針は、まさに「事大主義」そのものではないか。  すでにのべたように、明治の初期、日本海軍は兵員の脚気多発に悩んだ。それを経験主義的に、米麦混食を採用することによって克服し、ともかく海軍は脚気患者の解消には成功していた。にもかかわらず、この先例を陸軍は、日露戦争の末期に至るまで、無視し続けた。陸軍・軍医当局の中枢の位置にあった森鴎外は、この無視する側の理論的支柱であった。  兵員数の少ない海軍での実験結果だから、とか、脚気の原因のつかめないままの、対症療法であるから——というのが、この陸軍側の「無視」の根拠であった。  東大医学部の青山胤通教授が、オリザニンの臨床実験を無視した背景にも、この「事大主義」の匂いが濃く漂《ただよ》ってはいないか——。  士農工商的な序列やら階層秩序意識からすると、医学部は農学部の“上”とされるのかもしれない。事実、農学部の鈴木梅太郎は“百姓学者”と罵《ののし》られている。  海軍の麦飯にせよ、鈴木の薬のオリザニンにしろ、人体への実験さえやってみれば、クロシロが判明することであった。脚気の原因が解明したあとでなければ、やってはならぬ実験ではない。むしろ、結果的には、実験をやってみることによって、あべこべに原因究明が促《うなが》されたのであった。  にもかかわらず、その実験をあえて、やってみようとしなかったのは何故か。その背景には、「事大主義」的思考が強く働いていたからだと、私は考える。  創造という営みの、もっとも初期段階は、ごく小さな芽でしかない。しかも、その芽はしばしば“ことあげ”という小にくらしい芽で始まるものなのである。その上、芽の段階では、“毒の芽”なのか、“薬の芽”なのかも見わけがつかない。  そんな“小さな芽”をみずから体験したからこそ、鈴木梅太郎はいったのである。 「小さなものが常に小さいのではない。 大きなものが常に大きいのではない」と。  これは、「事大主義」とは、まさにあべこべの感懐といわねばなるまい。  創造を体験した人間は、反権威的であるのとならんで、しばしば「個人」というものに、ある種の強い親和性をもっている。  夏目漱石の創造体験、「私の個人主義」はそのことを、もっとも明快に宣言したものといえるであろう。  高峰譲吉の、アメリカでの研究生涯も、これまた「個人」性の濃いものであった。だからといって、彼、高峰は組織の重要性を軽視などしてはいない。むしろ彼は、ある種の組織を強く求めていたのであった。だからこそ、「国民的科学研究所」の創設を提唱したのである。しかしながら、そこで彼が提出した研究所組織は、きわめて個人重視の色の濃いものであった。  北里柴三郎を支援した福澤諭吉の思想はどうであったか。  彼もまた、幕藩体制下での階層秩序と序列意識を「親の敵」とまで嫌っている。そして、「一身の独立」こそ「一国の独立」に通ずると強調した人物であった。  長岡半太郎もまた、「一に人《ひと》、二にも人《ひと》」と個人重視を原則とした。そして福澤諭吉への親近感をかくそうとはしていない。 日本近代化論のナゾ  このようにみてくると、川島氏の所説、すなわち、タテ型社会の「組織原理」なるものは、青山胤通の周辺の社会構造を解明する場合にも、よくあてはまっている。  また、明治の科学者たちの創造と、抑圧との葛藤を解明する場合にも役に立つ。  つまり、川島氏の所説は、日本社会を分析するときの“理論的武器”として、相当な有効性を備えている——と、私は考えるのである。  もとより、川島氏は、日本の科学や技術を対象としながら、このような理論を構築したのではなかった。彼の観察対象となったのは、農村社会とか、政治の社会とか、せいぜいのところ東大という、学者の世界、それも理科系ではなくて文科系の学者の世界までであったろう。  にもかかわらず、日本の自然科学者の社会の解明にも役に立つ。いやむしろ、日本人の創造活動と、その抑圧とを解明する際に、彼の所説はもっとも有効なのではないか——とさえ、私は考えている。  しかしだからといって、川島氏の見解に私が何の疑問も抱かない——というのではない。むしろ私は、疑問を抱いている。かねてから、次のような疑問を提示している〔注3〕。すなわち、  川島氏によれば、家父長的組織の原理のひとつは、個人的行動、個人的責任感の欠如であるという。そして、この欠如は、外ならず「停滞の原理」だと指摘する。  たしかに日本の社会は、明治以降、健全な個人主義の精神によって支えられてきたとはいいがたい。  しかし、だからといって、明治以降、一世紀余の日本の歴史は、果たして「停滞」の歴史であったろうか——。  これは、しばしば日本の近代化論のナゾとされているテーマであった。 〔注1〕 平瀬作五郎(一八五六〜一九二五) 植物学者で東大小石川植物園助手。一八九六年、イチョウの精子を発見。    池野成一郎(一八六六〜一九四三) 東大農学部教授。一八九六年、ソテツの精子を発見。のちに学士院賞を受ける。平瀬、池野の仕事は、世界の植物分類学に一大変更をもたらした。    木村栄(一八七〇〜一九四三) 天文学者で、東大教授。水沢緯度観測所初代所長。緯度変化の観測中、観測値と理論値との差が一年という周期をもっていることを発見。地球の緯度変化を表わす式にZ項という新しい一項を入れることを提案した。天文学者として、日本から最初の国際的業績となった。学士院賞受賞者。    志賀潔(一八七〇〜一九五七) 医学者。北里研究所にあって、一八九八年、赤痢菌を発見。文化勲章受章。学士院会員。    秦佐八郎(一八七三〜一九三八) 医学者。伝染病研究所からドイツ留学。一九〇七年、エールリッヒの許で化学療法を研究。梅毒の特効薬、サルバルサンを発見した。    野口英世(一八七六〜一九二八) 医学者。アメリカのロックフェラー研究所で研究に従事。一九一一年、梅毒スピロヘーターの純粋培養に成功。のち学士院賞を受く。    本多光太郎(一八七〇〜一九五四) 物理学者、特に金属学者。一九一七年、世界最強の永久磁石鋼であるKS鋼を開発。イギリス鉄鋼協会のベッセマー賞、日本では文化勲章、学士院賞などを受賞。    高木貞治(一八七五〜一九六〇) 数学者。整数論の発展に大きく寄与した「アーベル体理論」を提出、世界の注目を浴びた。現代数学の、もっとも重要な仕事の一つと数えられている。 〔注2〕 熊谷謙二編。青山先生生誕百年祭準備委員会発行。一九五九年刊。 〔注3〕 飯沼和正著『模倣から創造へ』(東洋経済新報社刊、一九六八年、一四〇ページ) 第八章 創造のための組織の構築を 日本近代化のナゾ 西欧社会のパターン 模倣による発展、創造による発展 タテの糸とヨコの糸 二十一世紀に向けての手がかりとして 工業大国たり得たのはなぜか?  オモシとは何か——それが、この本のそもそもの初めからの設問であった。日本人の創造活動を抑圧してきた、オモシは何であったか。この設問に対して、わが国のタテ型社会構造とタテ型意識構造とが、最大のオモシであるという答えを私は用意した。タテ型意識構造というのは、健全な個人主義の精神を欠くものであり、事大主義、権威主義、いたずらな全体優先主義に外ならない。  だが、日本の社会が明治以降、一世紀余にわたって、そんなに反創造的な社会組織によって、構築されていたのだとすると、なぜ、今日の日本は、こんな工業大国に発展しえたのか——。  この問いは、日本社会の近代化のナゾとして、内外の研究者の間で、未だに、じゅうぶんに決着のついていない問題でもある。  この本で、そのナゾ解きにまで踏み入れていくべきか否か? これは、この本の冒頭で掲げた設問の範囲を越える議論かもしれない。  しかし、創造性抑圧のオモシが、タテ型社会構造であったと答えるだけでは、ものごとの半面に触れるに留まってしまう。  それだけでは、過去の分析だけに終始して、未来への展望を欠く。温故知新ともいうように、歴史を学ぶことの意味は、未来への展望を得ることでもあろう。  そこであえて、冒頭の設問の範囲を踏み越えてみたい。 日本近代化のナゾ  西欧以外の国々で、社会の近代化に成功した最初の国は、日本だとされている。  ここでいう「近代化」とは、産業社会における「工業化」、政治形態における封建制からの脱却、一般社会における市民階級の形成などを、おおよその中身としている。  以上の中身のうちの、どの部分を重視するかによって、日本の近代化に対する評価の違いは出てくるであろう。しかし、おしなべてみたとき、今日のわが国が、近代化に成功した社会である——ということでは、ほとんど異論はあるまい。  さらに、「近代化」という全体的な、総括的な社会現象のなかで、「工業化」という側面に、ことさら強く照明を当てて見るならば、わが国の「工業化」の現状は、もはや世界の第一級の水準に到達してしまっている。 (もちろん、この成功の背後に、“遠景”として、第二次大戦の、悲惨な廃墟が存在することを、無視するわけにはいかない。戦前の軍部や右翼の反理性主義のおぞましさに目をつぶることもしたくない。さらに、それを許した産業構造や、封建的遺制にも、目配りをしておかねばならない。しかし、それらのマイナス面を、ことごとくあるがままに認めたとしても、地球規模で見回したとき、今日の日本の社会は、近代化に成功した国といって、まずさしつかえあるまい。多数派であるが故に、正しいなどというつもりはないが、これは国内でも海外でも、ほとんど承認されている見解である。私もこれに同意したい)。  ところが、日本の社会の近代化と、西欧の社会の近代化とを対比させるとき、外見は同じように見えても、その核心にあるものは相当に違う。  というのは、近代化のパターンが、日本と西欧とでは、かなり違っているのである。この「パターン」ということばは、「図式」というべきかもしれないし、「方程式」というべきかもしれない。あるいは「原動力」ということばで置きかえることもできよう。  ともかく、そんなパターンに違いがある。  どう違っているのか——? 西欧社会のパターン  西欧社会の近代化のパターンはこうである。  すなわち、社会の近代化の根底には、強い、しかも健全な個人主義の精神がいきわたっていた(あえて陳腐な説明を加えておく。ここでいう個人主義の精神とはindividualismを指している。egoism=利己主義と混同しないでほしい。両方とも自我=egoを根底にしてはいる。しかし区別して考えたい)。  そのような健全な個人主義の精神が、市民階級の中に育っていって、それが経済的にも、市民階級を富裕にしていった。それによって、資本主義が発展し、工業化が進んだ。  このようなパターンをいちはやく見出して、今日、もっとも広く承認されているのが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー著、一九〇四〜〇五年刊)〔注1〕である。  その中で、マックス・ウェーバーが明らかにしたのは、最初期の資本主義勃興の担《にな》い手たちが、多くプロテスタント(新教徒)であったこと、彼らにはプロテスタンティズム(新教)の信仰によって、健全な個人主義の精神が培《つちか》われていたこと——などなどである。  周知のように、プロテスタンティズム(新教)というのは、ローマ・カトリックによる教会組織絶対主義への否認からスタートしている。教会組織の絶対視を否定して、個人と神との直接的なツナガリを重視する方向にキリスト教の信仰を一歩進めたのが、プロテスタンティズムであった。同時に、教会組織内の聖職者(祭司)だけが貴いのではなく、世俗社会の中でさまざまな生業《なりわい》についている万人が、祭司と等しく、たいせつなのだとも主張する(「万人祭司」論)。  それは単なる現世肯定主義に留まらず、むしろ現世での職業を、「神の召命」(Calling)として、積極的に奨励する生活態度をうみ出したのであった。  このような形で、プロテスタンティズムは、現世の生業《なりわい》にいそしむ人々の間に健全な個人主義を育てていった。そして、それが、きわめて禁欲的な資本主義を産み出した(もっとも、これはごくごく初期の手工業生産時代の、牧歌的資本主義の時代での話であるのだが——)。ともあれ、このような形で芽を出した資本主義が、やがて産業革命となって興隆し、本格的な工業化社会をもたらした。  以上がマックス・ウェーバー流に見た、西欧社会の近代化・工業化のパターンなのである。  つまり、そこでは近代化・工業化の核心=「原動力」となったのが健全な個人主義の精神——だということになる。 日本のパターンは  ところが、このパターンでもってしては、日本社会の明治以降の近代化は、説明しがたい。日本の場合には、「原動力」であるべき、健全な個人主義が、社会の根底にいきわたっていたとはいいがたいからである。  すでに夏目漱石に関する章で紹介したように、わが国にも健全な個人主義の提唱は、りっぱに存在した。それに共鳴する動きも確かにあった(たとえば大正デモクラシー)。しかし、それが日本の社会のすみずみにまで定着したか。なかんずく日本の産業社会の、進展の「原動力」として作用したか——といえば、答えはおおむね否と、いわねばなるまい。  すでにのべてきたように、日本社会に根強くいきわたっている組織、そしてその精神構造は「イエ」であった。川島武宜氏は、それを『日本社会の家族的構成』として表現し、中根千枝氏は『タテ社会』としてまとめてくれた。  このイエの組織にみられる精神構造は、健全な個人主義とは、おおよそアベコベのものである。そこではむしろ、個人主義は禁忌《タブー》として、嫌悪され、否まれてきた。  タテ社会——イエの組織で是とされ、ほめたたえられるのは、全体に殉ずること、権威に従うこと、組織に一体化すること、そして個人を無にすることである。  このような個人主義の欠如、全体優先主義、権威主義を基調とする社会でありながら、何故に西欧なみの近代化が達成できたのか。  日本社会の近代化の「原動力」はいったい何であったのか?  これが、従来、日本の近代化を議論する際の、大きなナゾとされてきたところであった。  これに対して、たしかライシャワー教授であったと思うが、徳川時代の寺子屋制度で培《つちか》われた、わが国の教育水準の高さが、日本の近代化のスタートで大きな役割を果たした——というような見方もある。  日本社会の武士道的、儒教的禁欲主義が、西欧社会におけるプロテスタンティズムに相当する役割を果たしたという見解もある。  しかし、これらは、いずれも個人主義の欠如という問題には、深く触れないですませている。  他方、ごく最近の見解として、とくに戦後日本経済が高度に発展して、世界でも最強の経済大国になるに至って、むしろタテ社会とイエの精神構造「和と協調」こそ発展の源泉であった、と開き直る見解もみられている。ここでは、二十世紀の科学技術の発展は、個人の独創性などによるものよりは、集団の協働(組織研究)によるところが大である。だから、個人だの個性は二の次であって、一向にさしつかえない。協調性こそ大切だ。だからこそ、日本は伸びた、日本は近代化に成功したのだ——という論法である〔注2〕。  しかし私は、これらのいずれの見方にもじゅうぶん満足ができないでいる。歴史の発展を統一的に説明しているとは思えないからだ。  というのは、これまでの近代化論には、科学史とか技術史の側面からの検討が、明らかに欠落している、のである。その検討を加えるならば、この近代化の問題は、もう少し統一的に、かつ整合性をもって説明がつくと、私は考えている。  私の考えは、次のようなものである。 近代化とは一義的なものか  近代化なり工業化という現象を、ただ一種類のもの、すなわち一義的なものと片づけるのはまちがっている。なかんずく対象を「工業化」に限って、西欧と日本とを対比させてみると、このことは歴然とする。  西欧社会の「工業化」は、おおむね「創造活動による工業化」であった。そこでは、新しい技術や科学の創造が社会発展の「原動力」であった。(実は、その西欧社会も、詳細に検討すると「創造」のみではないのだが……)  これに対して、日本の、明治以降約一〇〇年間の歴史は、「模倣による工業化」であった。そこにおいて、社会発展の「原動力」となったのは、海外からの、技術の導入であった。  第二次大戦後にも、「技術革新」ということばが、浮かれたようにとび交った時期があった。が、わが国の場合の「技術革新」の大部分は、技術導入にもとづく、つまり「模倣的」な技術革新であった。  このように、「工業化」の技術史には、少なくとも二つの「発展」の態様がみられるのである。したがって、「創造による発展」の場合と「模倣による発展」の場合とでは、その発展の原動力が、違っていて当然だ。  西欧社会の近代化に当たって、健全な個人主義の精神が社会発展の根源にある「原動力」となりえたのは、外ならず、西欧社会の工業化がおおむね「創造による発展」であったからだ。  これに対して、日本の社会の工業化は、「模倣」に頼って来た。「模倣による発展」の段階では、むしろ、「権威への追随」「ことあげの禁止」、「個人的責任感の欠如」——など(先に川島武宜氏が批判した)タテ型社会の基本原理は、むしろ有効に働くのである。個人主義の精神の欠如は、マイナス作用をもたらすのではなく、むしろプラス作用として働くのである。日本の工業化の場合、「追随すべき権威」は、西欧社会の自然科学であり、技術であった。  それ故に、西欧からの科学技術を導入し、模倣するに当たっては、わが国のタテ社会の組織や、イエの意識構造は、きわめて有効に働いた。たとえば、青山胤通の築いたタテ社会(医局の原型)は、ドイツ医学の導入と普及には、着実にかつ、非常に役立っている。それは反創造的ではあるが、模倣のための道具としては有効に機能したのである。  他方、日本の社会に潜在していた創造活動が、日本の産業社会に結びつくことはまれであった。結びついたとしても、社会の発展につながることは、もっとまれであった。  日本人に科学技術の創造性が乏しい——などという社会の一般認識は、このような歴史的背景と無関係ではない。しかし、事実問題として、日本の明治の科学史をひもとくとき、日本の科学者の世界に創造活動そのものが乏しかったとはいいがたい。少なくとも私には、意外に思えるほど、活発な創造活動が潜在していた(まずその事実を、私はこの本によって、もっと多くの人々に伝えたかったのである)。  ところが、日本の産業社会の側に立って、この事態をながめてみると、産業界にしてみれば、日本の大学での創造活動などは当てにしなくてもよかった。豊富に存在する海外の新技術のタネを、着実に追っかけて、それを順次、導入していけば、みずからの発展はじゅうぶんに保証されたのであった。少なくとも、明治以降一〇〇年ばかりの間はそうであった。海外からの技術導入が可能である限りは——。  ひるがえってこの本でとりあげた「明治の五人の科学者像」などでもわかるように、彼ら創造者の側には、ほぼ、のき並みに、強烈な「個」の意識が内在している。長岡半太郎にしても、北里柴三郎にしても、高峰譲吉にしても、はたまた文学者、夏目漱石にしても——。  日本人においても、創造行為の原動力は、強烈な「個」の意識でこそあれ、事大主義だの権威主義ではなかったようだ。そこのところは、日本の社会も、西欧の社会も変わりはない。  しかしながら、わが国の産業社会は、欧米諸国よりは五〇年から一〇〇年近くも遅れて、近代化に乗り出している。だから、明治以降、相当長期にわたって、模倣(技術導入)を余儀なくされる。そのような「模倣による発展」の時代には、日本国内に発芽した自主技術には、あまり求めがない。  したがって「個人主義の精神」→「科学技術の独創性」→「産業社会の発展」という連鎖反応が、過去のわが国では、起きてきようがなかったのだ。  このように検討してみると、われわれは、マックス・ウェーバーが提示したような近代化のパターン図8‐1を、図8‐2のように改訂してみなければならない。  つまり、ここでは、社会の発展が模倣に頼らざるをえない段階にあるのか、創造に頼らざるをえない段階にあるのか——によって発展のパターンが異なってくる。  この図のようなパターンで考えたとき、われわれは、西欧社会の近代化に関しても、日本の社会に関しても、より統一的に、より普遍的に、理解できるのではないか——〔注3〕。 流出した数多くの“創造”  模倣によって産業社会が発展しうる限り、その間はその社会に潜在する創造活動には陽が当たらない。われわれは日本の科学史の中に、そんな実例を、数多く見出すことができる。  その代表例は、本多光太郎(一八七〇〜一九五四)によるKS鋼である。これは一九一七年(大正六)に、東北大学の金属学の研究室で開発されている。それ以後一五年間、世界で最高の記録を保持した磁石鋼だ。最初にこれを利用したのは、アメリカのベル・テレフォンの研究所だった。電話機の中の磁石として組みこんだのである。  KS鋼の「KS」は、本多光太郎に研究資金を提供した住友吉左衛門の、頭文字を採っている。個人的にでもあれ、住友財閥の中心人物が参画していながら、KS鋼の実用化は日本国内では進展しなかった。結局、創造の芽は海外に流出せざるを得なかったのである。  日本国内の産業資本の立場からみれば、「KS鋼」を実用化すべき市場が、日本国内には未だ存在していない。あるいは、もっと、手っとり早く欧米から技術導入してくれば、もうかるような市場が他に存在していた、というべきかもしれない。  KS鋼のように海外に流出した、日本の創造の芽は、外にもたくさんある。  私の知っている範囲での、もっと古い資料は、一九五七年(昭和三二)九月刊の『電気試験所彙報』(第21巻9号)である。現在の工業技術院電子技術総合研究所の技報だ。そこには長島富雄氏が「日本で発明され、海外で実用化された磁性材料」と題して五件の具体例を報告している。  最近では、西沢潤一教授(東北大教授)が、「我が国で創造された電気関係の主な事項」として一五件を列挙。本多光太郎のKS鋼を初めとして、八木秀次の八木アンテナ(一九二六)、高柳健次郎のテレビジョン(一九二七)、武井武のフェライト(一九三〇)、吉田進のトリニトロン(一九六八)などを挙げている。そして、これらのうち、「戦後日本で工業化されたのは、吉田進のトリニトロンなどごくわずかでしかない」と、西沢教授は日本の産業界の、先見の明のないことを嘆く。  しかしながら、産業界の立場と、科学者(創造者)の立場とを、等分にみて考えるならば、日本の産業社会の水準が、総括的にいって世界の第一線から、未だかなり遅れている限り、わが国の科学者(創造者)が、冷や飯を食わされるのは致し方がない。強い言い方をすれば、それが、資本の論理だと、覚悟しておかねばなるまい、と私は思う。 歴史状況の転換——模倣から創造へ——  ただし、そのような歴史状況が、無際限に続くのではないのである。たしかに一〇〇年——明治以降一〇〇年——というのは長い歳月ではあった。しかしながら、日本において、模倣(と追走)によって発展する時代はようやく今、終ろうとしている。  統計的事実が、そのことを示し始めている。  この本の冒頭でも示したグラフではあるが、それを再度、引用してみよう(図8‐3参照)。  これは技術導入額と技術輸出額との比率を時系列的にグラフにしたものだ。  一国の産業構造が、模倣段階にあるか、創造段階に達しているかを、端的に示すものが、技術導入額と、技術輸出額との比率である。いってみれば、これが技術自立度の指標だ。  これが目下、一九九〇年ごろまでにかけて、この指標がまさに一〇〇パーセントを越えようとしている(この本の執筆に着手した一九八六年初めの統計において、それはすでに九九パーセントにまで到達していた。ところが円高の影響などもあって、その後に発表された統計では八〇パーセントに下降している。しかし、これは早晩、一〇〇パーセントを越すと推定される)。  このような歴史現象は、明治以降の、わが国の産業技術史では、初めてのはずだ。後世の歴史家は、これを日本の産業史の中でのひとつの、大きな歴史区分とせざるを得ないであろう。今、われわれが生きている時代は、そのような大きな転回点なのである(このことの重要な意味を、科学史、技術史の専門家も、何故かじゅうぶんに認識していない。またジャーナリズムの方でも、気がついていない)。  かつて、一九六八年に公刊した著書『模倣から創造へ』(東洋経済新報社刊)の中で、私は日本の技術がこの時点ですでに模倣から創造への転回点にさしかかっていることを予言している。  これは、明治以降の日本の技術史の発展を検討し、一九六五年前後の、わが国の技術水準を調べた結果をまとめた報告であった。  この著書の公刊以来、およそ二〇年の歳月が過ぎているのであるが、この著書の中で私が予言した方向は、年を追うとともに、確実に事実となってきている。  図8‐3でも明らかなように、「模倣から創造へ」の転回という現象は、今や、ほとんど統計的事実として、実証されかかっている。つまり、日本の産業社会そのものが、今や、資本の論理として、創造活動を要求してきているのである。それが、わが国の目下の歴史状況ではないか。  だとしたら、わが国の今後の発展の基調は、先の図に示したパターンIIから、パターンIに移行せざるを得ないであろう。 「産業社会の発展」→「科学技術の独創性」→「個人中心の組織(ヨコ型の組織)」→「健全な個人主義の精神」という、一連の連鎖反応が、今日、わが国でもようやく資本の論理として、求められ出してきたのである。  しかし、「個人中心の組織」とか「健全な個人主義の精神」が、われわれの社会に現在すでに豊かに根づいているとは、残念ながらいいがたい。  それをどのように構築し、どのように育てていくか——それは、これから二十一世紀にかけての、われわれの重要な課題の一つであるだろう。 「創造」の根底にある「健全な個人主義の精神」とは、いかなるものか。  夏目漱石は、それを早くも「私の個人主義」という形で、提示してくれた。  創造のための組織はどうあらねばならないか。それを高峰譲吉は「国民的研究所」という形で提唱してくれた(これは大正期に「理化学研究所」として創設され、しかも大きな成功を収めている)。  長岡半太郎の“爆弾演説”なども、そのような観点でもう一度、考え直していただきたい。 タテの糸と、ヨコの糸と  今後の社会の発展を考える上で、最後に、つけ加えておきたいことが、もう一つある。それは、“模倣か、さもなくば、創造か”と、二者択一的にはとらえないことだ。一人の人間としての成長にも、模倣の年代があり、創造の年代がある。  また、ある社会が、創造によって発展する時代に至ったからといって、その社会のすみからすみまでが、創造活動のみによって、占められるわけではない。実社会の日常の活動のおそらく六〇〜七〇パーセントは、いつの時代でも、また、どんな社会でも、模倣的な活動ではあるまいか。つまり、それほど創造的ではない、定型的業務の積み重ねであろうと思われる。今日の社会にあって、今日の生活を支えている仕事の大半は、むしろ定型的な活動、いわば模倣的であってもさしつかえのない仕事であろう。  ところが、創造活動の重要性を強調するあまりに、もう一方にある模倣的な仕事が、いたずらに蔑視《べつし》されることになると、社会はどうなるか——。  われわれはその典型的な例を、CTスキャナー〔注4〕の開発にみることができる。これは、近々二〇年の間に起きたことである。  脳の内部を輪切り画像として見せてくれる画期的なX線診断装置として、CTスキャナーは、今日、全世界に知れ渡っている。これは、イギリスのEMI社が、一九七二年に開発したものだ。同社のG・N・ハウンスフィールド博士は、この業績によって一九七九年に、ノーベル賞(医学生理学部門)を受賞した。ところが、当のEMI社は今日、見る影もない。他社にバラバラに吸収合併されてしまっている。つまり、CTスキャナーの開発には成功したけれど、生産体制では敗れてしまったのである。  日本のタテ割り型社会構造に対比して、イギリスの社会構造はヨコ割り型だと、しばしば指摘されている。エリートはエリートで、ブルーカラーはブルーカラーで——と、階層が分断されている。このために画期的な、独創的な仕事は出やすい。しかし、社会の生産力のほうはもう一つ、というのが最近のイギリスのようである。  丈夫な織物にはタテの糸と、ヨコの糸の両方がいる。日本の社会にあって、過去の時代にもっとも欠けていたのは、ヨコの糸であった。だから、新しい時代に備えて、これからは何よりもまず、ヨコの糸を織りこんでいかねばならない。しかし、ヨコの糸を重視するあまり、タテの糸のことが忘れ去られてしまって、よいはずはない。  タテの糸に対して、ヨコの糸を織りこんでいくという作業は、しかしながら、足して二で割るようなものではない。タテ糸とヨコ糸とを、いっしょくたにして、お団子のように丸めてしまうのでもなさそうだ。タテとヨコとを、どう織りなしていくのか、そこにはたぶん、それなりの、しっかりとした設計思想が、生まれてこなくてはなるまい。それがいかなるものなのか。  これもまた、二十一世紀へかけての、重い課題であるはずだ。 〔注1〕岩波文庫。梶山力・大塚久雄訳。 〔注2〕浜口恵俊著『日本人らしさの再発見』、村上泰亮・公文俊平ら著『文明としてのイエ社会』などの見解がそれである。 〔注3〕この稿は、一九八四年四月、ソウルの高麗大学で開かれた「第一次韓日科学著述人シンポジウム」で最初に発表したものである。 〔注4〕硬い頭蓋骨のなかに納まる、軟らかな脳味噌の病変を、頭の外骨からX線断層撮影(Tomography)で診断しようというのがCTスキャナーである。生体組織によって、X線吸収係数に、若干ずつの差があるところに着目。この差を数値として検出して、コンピュータでデジタル処理をした上で画像化する。最初は頭部診断装置として開発され、その後、全身を対象とする診断装置に発展している。   あとがき  この本は、私が過去に公刊した次の二つの著作につながるものである。すなわち、 『模倣から創造へ——転回点に立つ日本の技術——』(東洋経済新報社刊、一九六八年) 『日本技術——創造への組織を求めて——』(同右刊、一九八三年)  この二つのうちの前者は、私にとって、第一論文とでもいうべきものであった。今回のこの本も、思想的には、第一論文の延長線上にある。かつての著作では、二〇ページばかりの一部分を、具体的な資料を盛り込んで、一冊にまとめたのが、この本である。  著作というものは、その著者の第一論文(処女作)に向かって完成してゆくものだ……というような話を、いつか聞いたことがある。だれがそういったのかは忘れてしまった。しかし、私の著作も、まちがいなく、第一論文に向かって、歩んでいるように思う。  この本では——特に、最後の章のあたりで——はしょって説明しきれなかったこともある。そんなことで、首をかしげる読者は、恐縮ではあるが、二〇年昔の旧著に当たっていただきたい。  何分、一九六八年(昭和四三)のものではある。しかし、私が、その第一論文で指摘したことがらが、それ以降の二〇年という風雪に耐え得たものであるかどうか——改めて、ご批判を乞いたい。 ×      ×      ×  創造のための組織とは何なのか。具体的には、どんなものなのか。  一〇〇〇人の研究者を集めた大研究所をつくれ——式の勇ましい論議が、いつの時代にでも、すぐに聞かれるものだ。  しかし、そんなものではあるまい。  利根川進博士がノーベル賞の仕事をした、スイスのバーゼル研究所は、五〇人ばかりの小さな仕事場であった。江崎玲於奈博士のトンネルダイオードも、未だ小企業でしかなかった時代の、ソニーの実験室で見つかっている。  創造のための組織というのは、何よりも、人間の創造活動の基本原理を踏まえた組織でなければなるまい。  日本の社会風土は、反創造的だといわれる。しかし、そんな、わが国でも創造的な組織が皆無なのではない。  古い例では、戦前の(旧)理化学研究所が、それに近かった。  最近の試みとしては「創造科学推進制度」(科学技術庁)は、少なくとも創造の基本原理を認識した制度だと、私は考えている。(もっとも、これには若干の“我田引水”も含まれる。この制度を策定する過程で、私自身、関与したからだ。ただ、この策定の中心となったのは、千葉玄弥、長柄喜一郎、宮本二郎らの各氏であった)。  二十一世紀にかけての、創造のための組織を作るべく、私自身が、もっと深く関与したのは「国際高等研究所」(奥田東理事長、在京都、一九八四年創設)である。岡本道雄先生(元京大総長)からの委嘱で、この研究所の「基本構想」を提出している(その報告書は島津科学技術振興財団から一九八三年に出版)。  目下私に考えられる創造活動のための組織とは、いま、ここで例示したようなものである。そして、このような組織が、二つや三つ、ポツン、ポツンと存在するのではなく、日本の社会のなかに、いっぱい誕生してゆくことをねがいたい。 ×      ×      ×  今回の、この著作は、最初、『技術と経済』誌(月刊)に一九八六年四月から一三回にわたって連載されたものだ。「(社)科学技術と経済の会」から出ている月刊誌だが、著者の主張を語りかける相手としては、この会のメンバー、この雑誌の読者は、もっともふさわしい人たちであった。そのような雑誌に発表の場をもち得たことを、本当に感謝している。なかんずく同会の常務理事、只野文哉博士(日本での電子顕微鏡開発者の一人)および直接の編集に当たってくれた阿部裕文氏(編集部長)のお二人に感謝の意を表さねばならない。  また単行本として出版するに当たっては、小枝一夫氏(講談社学術局次長)、また直接の編集担当者として藤井俊雄氏(同社科学図書出版部)に感謝。  最後になって恐縮であるが、雑誌掲載中から、本稿を熱心に読んでくれて、励ましの手紙を、たくさんくださった秦正流氏(朝日新聞・元専務)にも厚くお礼を申しのべたい。  それから、私の著作には毎回、登場するのであるが、妻の玲子にも。彼女はいつも私の原稿の第一読者なので——。  参考文献 〔第一章〕 『北里柴三郎伝』(北里研究所、一九三二年刊)/『北里柴三郎邦文論説集』(北里研究所、一九七八年刊)/『ローベルト・コッホ』(ヘルムート・ウンガー著、宮島・石川訳 東京・富山房、一九四三年刊)/『藤野・日本細菌学史』(藤野恒三郎著、近代出版、一九八四年刊)/『思い出の青山胤通先生』(青山先生生誕百年祭準備委員会、一九五九年刊)/『日本医学百年史』(臨床医学社、一九五六年刊)/『東京帝国大学五十年史』(東京大学、一九三二年刊)/『現代日本医療史』(川上武著、勁草書房、一九六九年刊) 〔第二章〕 〔単行本・いずれも非売品〕 『高峰博士』(塩原又策編集発行、一九二六年刊)/『高峰博士の面影』(高峰博士顕彰会編集発行、一九六一年刊)/『JOKICHI TAKAMINE A Record of His American Achievements』by K.K. KAWAKAMI, published by WILLIA MEDWIN RUDGE N.Y. 1928. 〔単行本・市販〕 『アメリカ史 下』(A・ネビンス、H・コマジャー著、原書房、一九六二年刊) 〔雑誌の記事など〕 『実業の日本』誌/(1)天地著「日本の名誉ある海外成功者」(一九〇七・一、第10巻1号)/(2)高峰譲吉著「百難に克ちたる在米廿余年の奮闘」(一九一三・三、第16巻8号)/(3)高峰譲吉著「資金壱千万円の国民的化学研究所余が……精神を告白す」(一九一三・五、第16巻11号)/『科学史研究』誌/山下愛子著「アドレナリン実験ノート」(一九六六、�79)/『薬局の領域』誌/上中啓三・伊沢凡人著「自伝対談」(一九五八、第7巻�9と�10) 〔第三章〕 『長岡半太郎伝』(板倉聖宣、木村東作、八木江里著、朝日新聞社、一九七三年刊)/『長岡半太郎』(板倉聖宣著、朝日新聞社、一九七六年刊)/『随筆』(長岡半太郎著、改造社、一九三六年刊)/『科学五十年』(湯浅光朝著、時事通信社、一九五二年刊)/『解説 科学文化史年表』(湯浅光朝著、中央公論社、一九五〇年刊) 〔第四章〕 『池田菊苗博士追憶録』(同博士追悼会発行=片山正夫代表=一九五六年刊、非売品)/『味の素株式会社小史・未踏世界への挑戦』(日本経営史研究所、一九七二年刊)/『鈴木三郎助伝・森矗昶伝』(石川悌次郎著、日本財界人物伝第18巻、東洋書館、一九五四年刊)/『旨味の発見とその背景——漱石の知友・池田菊苗伝——』(広田鋼蔵著、一九八四年刊、非売品)/『味の素の発明者・池田菊苗』(池田兼六著、民主教育協会、一九六二年刊) 〔第五章〕 『漱石全集・第二刷』(岩波書店、九巻、十一巻、十三巻、十四巻、十六巻)/『エネルギー』(オストワルド著、岩波文庫、一九三八年刊) 〔第六章〕 〔単行本〕 『鈴木梅太郎先生伝』(社・鈴木梅太郎博士顕彰会編集、朝倉書店、一九六七年刊)/『現代日本医療史』(川上武著、勁草書房、一九六五年刊)/『ビタミン』(鈴木梅太郎著、日本評論社、一九四三年刊)/『ビタミン〔I〕——研究史を中心として——』(島薗順雄、万木庄次郎共著、共立出版、一九八〇年刊第2版)/『ビタミン研究五十年』(ビタミン研究五十年記念事業会編、第一出版、一九六一年刊)/『森鴎外の医学と文学』(宮本忍著、勁草書房、一九八〇年刊)/『思い出の青山胤通先生』(熊谷謙二編、青山先生生誕百年祭準備委員会発行、一九五九年刊)/『島薗順次郎教授論文集(和文編)』(島薗内科同窓会編発行、一九三八年刊)/『脚気』(島薗順次郎著、克誠堂、一九二九年刊 増訂二版) 〔雑誌・論文など〕 「鈴木梅太郎とビタミン研究」(青木国夫・鈴木重昭著、『自然科学と博物館』一九七一・38巻)/「照内豊による鈴木梅太郎らのオリザニンの最初のドイツ文による紹介」(鈴木重昭著、『科学史研究』一九七二・夏号) 〔第七章〕 『科学五十年』(湯浅光朝著、時事通信社、一九五二年刊)/『日本の科学百年』(本田一二著、鹿島出版会、一九六九年刊)/『日本社会の家族的構成』(川島武宜著、日本評論社、一九五〇年刊)/『タテ社会の人間関係』(中根千枝著、講談社現代新書、一九六七年刊)/『思い出の青山胤通先生』(熊谷謙二編、青山先生生誕百年祭準備委員会発行、一九三八年刊)/『模倣から創造へ』(飯沼和正著、東洋経済新報社、一九六八年刊) 〔第八章〕 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウエーバー著、大塚久雄ら訳、岩波文庫、一九五五年刊)/『日本人らしさの再発見』(浜口恵俊著、日本経済新聞社、一九七七年刊)/『現代日本技術史概説』(星野芳郎著、大日本図書、一九五六年刊) 〔全章を通じて関連のある文献として〕 『模倣から創造へ』(飯沼和正著、東洋経済新報社、一九六八年刊)/『日本技術——創造への組織を求めて』(飯沼和正著、東洋経済新報社、一九八三年刊)/『独創』(西沢潤一編、(財)半導体研究振興会、一九八一年刊)/『続・独創』(同上、一九八六年刊)/『科学と独創』(川上正光・本間三郎編、朝倉書店、一九七九年刊)/『脳のはたらきと独創』(同上、一九八〇年刊)/『最近の科学技術と独創』(同上、一九八一年刊)   謝 辞 執筆に当たって、次の方々から文献資料、写真資料などにつき、ご協力いただきました。 感謝して、お名前を記します。 〔第一章〕 秋元亀蔵氏(北里研究所・秘書室長)/川上武氏(医師、『現代日本医療史』などの著者)/藤野恒三郎氏(大阪大学名誉教授・同・元微生物研究所長)/酒井シヅ氏(医博・順天堂大学助教授・医史学)/八木沢守正氏(理博・日本抗生物質学術協議会研究情報部長) 〔第二章〕 菅野富夫教授(生理学者・北海道大学)/松山忠男氏(三共株式会社・総務部課長)/中安悠氏(ニューヨークにある高峰譲吉の墓廟の写真撮影者、著者の弟) 〔第三章〕 高石皓一氏(理化学研究所普及部図書・発表課長)理研の写真資料など、提供をお願いした。 また『長岡半太郎伝』などについては、本島宏氏(朝日新聞調査部長)のお力添えを願った。 〔第四章〕 広田鋼蔵博士(『旨味の発見とその背景・池田菊苗伝』の著書、大阪大学理学部名誉教授・化学者)/川島良子氏(味の素株式会社食文化・史料室)/井上忠久氏(味の素株式会社広報室・課長)/池田兼六氏(池田菊苗の末子、七十九歳、化学者)/中川浩一教授(茨城大学) 〔第五章〕 朝日新聞・東京本社調査部 〔第六章〕 丸山芳治教授(東京大学農学部農芸化学科)/酒井シヅ助教授(順天堂大学・医史学)/島薗順雄博士(故・島薗順次郎氏の子息。東京大学名誉教授)/斎藤実正氏(『オリザニンの発見——鈴木梅太郎伝』の著者、一九七七年刊。城西大学理学部教授。この文献は、創作の部分と史実の部分とが混記してあるので、本書の「参考文献」には列記しなかった) 〔第七章〕 酒井シヅ助教授(順天堂大学・医史学)/川島武宜氏(東京大学名誉教授・法社会学) 〔第八章〕 金貞欽(キム・チュムフム)教授(韓国物理学会会長)/玄源福(ヒュン・ウォンボク)氏(韓国科学著述人協会副会長)牧野純夫氏(東芝メディカル・エンジニアリング社長) あるのかないのか? 日本人の創造性 ——草創期科学者たちの業績から探る 講談社電子文庫版PC  飯沼和正《いいぬまかずまさ》 著 Kazumasa Iinuma 1987 二〇〇二年一〇月一一日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000255-0